
東洋学園創立者 宇田 尚(槃山)
1881(明治14)~1968(昭和43)
父は所謂進歩的な女性解放主義者ではありません。むしろその時代の女子教育者の多くが唱えていた良妻賢母教育と目的は同じであったかも知れないと思います。しかしその家政万能の良妻賢母教育が現実の社会では女性にとって大きなハンディとなり、これがいつも良妻賢母をおびやかし、家庭の幸福を破壊する原因になっていると指摘しておりました。女性の天職は良き母、良き妻であり、家庭の中心は主婦でなければならないということを何時も念頭に置き乍ら、その上に女性は職業を持ち、家事、育児と両立させ、立派にやり遂げることこそが、良き伝統の中から生れた、新しい時代に相応しい良妻賢母の女性像であると信じておりました。この現実の社会と理想の社会とをしっかりと調和させ、これを実現していこうとする考え方、この理想の中に儒教的精神があったのではないかと考えております。歯科医師が社会的地位も高く、経済的にも安定できる職業であり、しかも往診のない医師であるので、比較的家事、育児と両立することに大きな期待をかけ、理想の実現を目指し、歯科医専の仕事に心血を注いで来たものと思います。
(馬渡房「父、宇田尚の思い出」*1)

宇田槃山 自強(彊)不息
槃澗学寮(東洋学園栃木寮)蔵
天行健君子以自彊不息(天行健なり。君子以て自ら彊めて息まず)は易経の一節、「天地の運行に休みがないように君子は自ら励み怠ることがない」。宇田尚は生涯を通じて自彊不息を実践し、後継者の長女・馬渡房はこれを東洋学園建学の精神とした*2。宇田尚の書「自彊不息」は2点現存し、いずれも「彊」に「強」をあてている。
| 1881(明治14)年 | 12月20日 | 東京府下谷区竹町に宇田廉平四男として生まれる |
| 1883(明治16)年 | 1月 | 廉平、文武館教員となり奈良県十津川に移住 |
| 1886(明治19)年 | 11月 | 栃木県上都賀郡永野村瀧之原(槃澗書屋)に移住 |
| 1887(明治20)年 | 宇田義房(廉平弟)の養子となる 牛込区赤城尋常小学校入学 | |
| 1890(明治23)年 | 瀧之原宇田家に戻る | |
| 1891(明治24)年 | 上永野尋常小学校卒業 農業、木炭商に従事しつつ漢籍独習 | |
| 1901(明治34)年 | 陸軍野砲兵第十六連隊に入営 | |
| 1904(明治37)年 | 日露開戦 出征 旅順攻囲戦、二〇三高地で野砲運用に功績 第三軍工兵部長榊原昇造大佐の知遇を得る | |
| 1907(明治40)年 | 9月 | 榊原の推挙により北白川宮成久王に仕える 華族実業家子爵青山幸宜の知遇を得る |
| 1908(明治41)年 | 庄司愛と結婚*4 | |
| 1910(明治43)年 | 中央大学専門科経済学科入学*5 | |
| 1912(明治45)年 | 同卒業 青山家相談役就任 実業界に入る | |
| 1921(大正10)年 | 日東印刷株式会社代表取締役就任 | |
| 1926(大正15)年 | 9月10日 | 財団法人明華女子歯科医学専門学校第1回新理事会を本郷区湯島天神町の私邸で開催 同財団常任監事に就任 |
| 10月11日 | 東洋女子歯科医学専門学校に改称 | |
| 11月4日 | 同校、文部大臣の指定(無試験開業の特典)を得る | |
| 1928(昭和3)年 | 12月8日 | 財団法人東洋女子歯科医学専門学校理事長に就任 |
| 1929(昭和4)年 | 6月 | 中国視察 |
| 1930(昭和5)年 | 10月22日 | 東洋女子歯科医学専門学校校長に就任(理事長兼務) |
| 11月30日 | 永野村で宇田廉平没後25周年祭挙行 槃澗書屋を槃澗学寮と改め、湯島私邸を東洋思想研究所とする | |
| 1935(昭和10)年 | 10月 | 財団法人斯文会(湯島聖堂)理事に就任 |
| 1936(昭和11)年 | 5月28日 | 次女富、愛知揆一に嫁す |
| 10月9日 | 長女房、榊原帯刀に嫁す | |
| 1938(昭和13)年 | 3月 | 北京臨時政府教育部顧問に就任 |
| 4月 | 国立北京師範学院副院長に就任 | |
| 8月 | 東亜文化協議会理事に就任 | |
| 9月18日 | 榊原帯刀・房夫妻長男正長出生 | |
| 10月28日 | 榊原帯刀他界 房は後に馬渡一得と再婚 | |
| 1941(昭和16)年 | 大政翼賛会参与に就任 | |
| 3月 | 財団法人青山会館館長に就任 | |
| 1943(昭和18)年 | 8月 | 大政翼賛会興亜総本部参与に就任 |
| 1945(昭和20)年 | 3月10日 | 第1回東京大空襲 湯島天神町の私邸焼失 |
| 4月13~14日 | 第2回大空襲 東洋女子歯科医学専門学校焼失 | |
| 1946(昭和21)年 | 2月21日 | 湯島聖堂仮教室で校長退任告別式 |
| 5月 | 脳溢血発症 公職追放 | |
| 6月22日 | 財団法人東洋女子歯科医学専門学校理事長より退任 | |
| 1952(昭和27)年 | 3月 | 追放解除 |
| 1968(昭和43)年 | 3月7日 | 他界(86歳) |

宇田廉平
宇田尚の父、宇田廉平*6は安房国安房郡真倉村(現 千葉県館山市)の人、宇田芳齋の長男として1840(天保11)年10月17日に生まれた。後述する武蔵国金沢藩(版籍奉還後六浦藩)に提出した親類書*7には本国安房、生国上総と記している。青年時代は節之助*8と名乗り、諱は正房*9上総の九十九里浜に因み白里と号した。子直先生と音読みするのは字と思われる。戸籍、履歴書は廉平、墓碑に子直宇田廉平と記している。1843(天保14)年に弟(芳齋次男)義房(俊郎)が生まれ、義房は後に宇田尚を養子に迎える。
青年期の宇田廉平は江戸の漢学者海保漁村*10の私塾掃8葉軒で渋沢栄一*11、鳩山和夫*12らとともに儒学を学び、次いで文久三博士と謳われた芳野金陵*13に学んだ後、1867(慶応3)年、武州金沢藩に仕官した。時代は幕末動乱期であり実力本位の採用と推測される。同年に大政奉還があり、翌1868(慶応4・明治元)年10月に新政府が定めた藩治職制による公議人に登用され、1869年には藩主米倉丹後守昌言の御前で講釈を行い、1870年に藩重役筆頭の大参事に任じられた。
藩はかつて下野国都賀郡皆川城内村(現 栃木県栃木市)に陣屋を置いて皆川藩と称し、野州領のほか武蔵国越ヶ谷領、同国久良岐郡の金沢領(現 神奈川県横浜市金沢区)、相州領(現 厚木・平塚・秦野市などの一部)を知行する表高1万2千石の小藩ながら、1722(享保7)年以降は江戸湾を扼する風光明媚な金沢(六浦)に陣屋を移して幕末は海岸防備にも従事し、横浜開港場からも至近の要衝にあった。
新政府は1869年に公議所を設置し、政府各官・諸学校・諸藩代表各1名を公議人として政府の諮問に答申させた。宇田廉平は同藩公議人として東京で出仕し、公議所は同年7月8日に集議院と改称して宇田廉平も集議院徴士となり、待詔院献議係を兼務した。
新政府は版籍奉還(1869)、廃藩置県(1871)によって封建体制の解体を進め、これによって六浦藩は六浦県となり、1871年11月に神奈川県などと統合して廃止された。公議所・集議院は政府が進める中央集権化への反発が強く、伊予今治藩の久松修理、六浦藩の宇田廉平らは廃藩置県の得失を論じ、久松が「御国体御問題四條謹テ之ヲ併セ論(ス)」として建議した。これは封建不換郡県不廃とする群封相半論(折衷案)である*14。
こうした動きはより大きなうねりとなり、「相謀リテ之ヲ覆サント欲シ、当時明治天皇ニ奉侍シテ御親任篤カリシ大多喜、富山両侍従ヲ経テ此政将ニ革ムベキ由ヲ上奏シ奉リシニ直チニ懇ロナル御下問ヲ蒙リシカバ、謹テ之レニ対スル奉答文ヲ*15」提出した。


宇田廉平の奉答草稿を収める孤忠留真帖の徳富蘇峰(菅正敬)書と草稿冒頭
「抑々此ノ挙ニ頭目タリシハ、前記両侍従、山内容堂、雲井龍雄、初岡啓治、中沼良蔵(了三)等ニシテ(中略、宇田廉平は)徴士中、年少者タリシモ深ク容堂等ノ知遇ヲ受ケ、常ニ其ノ謀議ニ参画セシヲ以テ本文ノ起稿ヲ託セラレシモノナル可シ*16」。これを政府転覆の謀議と見なした藩閥政府中央は1871~72年に公家の愛宕通旭と外山光輔に自刃を命じ、旧羽前米沢藩士雲井龍雄、旧羽後久保田藩士初岡敬治らを捕縛処刑した。危険が迫った宇田廉平は旧藩野州領の下野国安蘇郡上永野村瀧之原(現 栃木県鹿沼市上永野)に退転、1872年7月21日付で本籍を移し、その家を槃澗書屋と名付けた。以後「此ノ挙ニ就キテハ固ク口ヲ緘シテ何人ニモ之ヲ語ルヲ欲セザリシガ獨リ母(夫人、一橋家臣村山義倫次女貞)ノミニ語リタル*17」。
槃澗書屋は栃木県上都賀郡永野村に在り。白里宇田子直先生が晩年徜徉捿遅の跡にして、栃木町を西に距るゝこと数里。後に翠巒の重畳たるを控へ、前渓流の潺湲たるに臨み、風光明媚、眞に俗塵を絶せる幽邃郷に建つ。(『槃澗餘香』序*18)
槃澗書屋の由来は詩経『衛風』衛第五「考槃在澗碩人之寛」(槃しみを考しとげて澗に在るは碩れし人の寛ぎなり/槃しみを考して澗にあり、碩人之れ寛たり)から、自然の中で悠々自適の境涯を歌ったものとされ、宇田尚は「学者の道を行ふに当りてや人の知らざるを憂ひず、如何なる逆境に陥るも自ら渓に下つて水を呑み、よく独りを慎み、礼を失はずの意」*19としている。つまり、晴耕雨読の理想を掲げて帰農したのであったが、「山奥の僻村に移り住むことになつた家族の辛苦は並大抵なものではなかつた*20」。

足尾山地(安蘇山塊)の山懐、永野川の上流百川に沿う槃澗学寮(東洋学園栃木寮)とその農園。

1930(昭和5)年、宇田尚は宇田廉平没後二十五周忌を期に家屋を増改築して槃澗学寮と改め、修養の場とした。今日も東洋学園栃木寮として利用されている。

第一高等中学校教授 栃木県士族宇田廉平履歴
西南戦争を最後に士族の反乱が終息し、自由民権運動の盛行を経て立憲君主制の確立に進みつつあった1883(明治16)年1月、宇田廉平は奈良県十津川の文武館に教員として赴任し、1886年11月までその職にあった。文武館は1864(元治元)年に孝明天皇の勅命で十津川郷士ら勤皇志士の文武修行のため設立され、近代は中等教育機関となった。今日の奈良県立十津川高等学校である。
政府は1886年に中学校令を公布し、東京大学予備門を改組して第一高等中学校を設置した。第一高等中学校は1894年に高等教育機関の第一高等学校に改組、現在の東京大学教養学部などに繋がる。1888(明治21)年、宇田廉平は第一高等中学校の古荘嘉門(1840~1915)校長から倫理・漢学教授として招聘された。その時点で一ツ橋にあった同校は1889年に本郷区向ヶ丘弥生町へ移転し、1935年に駒場へ移転するまで本郷にあった。
明治20年代は欧化政策の反動で国粋(国権・国家)主義の時代となる。1890年発布の教育勅語をその象徴として、かつて欧化主義、自由主義者を任じた初代文部大臣森有礼(1847~1889)も国粋主義に転向、古荘嘉門の起用は森文相が行った人事である。書生(学生)の粗放懶惰な生活態度が社会の批判を浴びていたことから、国は人格の陶冶を重視し、第一高等中学校では護国旗を制定し、倫理講堂を設置、講堂内に文の菅原道真、武の坂上田村麻呂の肖像を掲げ、文武両道、質実剛健の校風を作興した。このために「勤皇家で国漢学の大家であった、宇田廉平という人を、恭しく迎え」、その「講義といい、見識といい、荻生徂徠、新井白石、太宰春台、芳野金陵などの風*21」だったという。
1年後に同僚となった塩谷時敏(青山 1855~1925)は文久三博士の一人、塩谷世弘(宕陰)の弟の誠(簣山)の子息で、廉平退官後もしばしば栃木の槃澗書屋を訪ねる仲となった。1894年から翌年にかけ、同校漢文科教員の那珂通世・宇田廉平・塩谷時敏・島田鈞一の共同編纂による『高等漢文読本』巻之一~四(共益商社書店)を刊行した。宇田廉平の住所は本郷区駒込西片町10番地となっており、家族を栃木に残した単身赴任である。
宇田廉平が授業時に携帯したいわゆる閻魔帳に次のような生徒心得が記されている*22。
| 一 | 倫理教室ヘ出席スルニハ各自姓名札ヲ倫理教室出張ノ吏員ヘ差出し出席ヲ致スヘキ事 |
| 二 | 倫理教室ヘ入ラントスルトキハ先着ノ者ヨリ順次一列トナリ整粛に進入シ左側ヨリ進テ前席ノ右端ヲ第一席トシ順次着席スヘキ事 但シ退席ノ時ハ第一席ノ者ヨリ右側ヘ就キ順次一列トナリ退出スヘシ |
| 三 | 倫理教室ヘ入ルニハ戸外ニ於テ必ス先ス帽ヲ脱スヘシ |
| 四 | 倫理教室ヘ出席スルニハ講義ニ関スル書籍ノ外外套ハ勿論其他図書器具又ハ弁当等ヲ携帯スヘカラサル事 |
| 五 | 堂内ハ厳格静粛ヲ旨トシ生徒互ニ談話スルヲ許サス |
| 六 | 倫理教師ノ出席又退席ニハ一同起立シテ敬礼ヲ行フヘキ事 |
| 七 | 前上ノ規則ヲ守ラス坐作進退厳粛ナラサル輩ハ入場ヲ禁シ時宜ニ因リテハ退学ヲ命ス |
1891年の内村鑑三不敬事件*23の舞台はこの倫理講堂である。旧制一高の質実剛健の校風は宇田廉平ら倫理講堂の教師が作ったとも言われる。1889年に校長となった木下広次は古荘の路線を踏襲しつつ、俗世から隔離した篭城主義(全寮制)を打ち出し、儒教的武士道倫理とフランス流自由主義の二面から自治の校風を指導した。さらに次代の新渡戸稲造校長はいま一つの旧制高校文化となる教養主義を提唱した。
宇田廉平は1891年から陸軍幼年学校教授を兼任、将来の国軍幹部の教育にもあたった。1897(明治30)年6月に退官した際は塩谷時敏の子息の塩谷温(節山 1878~1962)が在学しており、「送宇田先生帰下毛旧棲序」を書いて告別とした。塩谷温は後に東京帝国大学文学部教授となり、宇田尚と親しく父子二代に亘る交流となった。
宇田廉平は瀧之原の槃澗書屋で1906(明治39)年11月25日、66歳で没した。法号は瀧間院殿考学米倉護法大居士である。


槃澗書屋碑 題字 徳川家達
撰文 塩谷時敏(青山)「槃澗書屋記」 1897年5月 槃澗学寮敷地内
1887年の冬、宇田廉平が奈良県十津川から栃木に帰ったところを塩谷時敏が訪ねるところから起こし、永野村の自然、暮らしぶり、槃澗書屋命名の由来、六浦藩、集議院、十津川、高等中学教授、官を退くにあたり家屋を拡げたことなどを記す。徳川家達は徳川宗家(田安家)16代、貴族院議長、ワシントン軍縮会議首席全権など。財団法人斯文会(湯島聖堂)に関わり、斯文会理事宇田尚との関係から揮毫。

小松宮彰仁親王(晩翠 1846~1903 陸軍参謀総長など元帥・陸軍大将) 「時還読我書」(時に還りて我書を読む) 1898年 槃澗学寮蔵
晴耕雨読の喜びを詠った陶淵明の詩の一節。宇田廉平が陸軍幼年学校を退官する際に贈られた。

平沼騏一郎(1867~1952 第35代内閣総理大臣) 「槃澗餘香」 1932年 槃澗学寮蔵
宇田廉平二十五周忌に編纂された『槃澗餘香』表紙題字。
宇田尚は1881(明治14)年12月20日、父宇田廉平、母貞の四男として東京府下谷区竹町(現 台東区台東)に生まれた。上に異母兄姉2人、次兄の愿(源)次郎、寛、下に五男清、妹4人がいる。1883年1月より父の文武館赴任に伴い奈良県十津川に移住し、85年頃から父について三字経、論語を学び始めた。1886年11月に栃木県上都賀郡上永野村へ移り、翌1887(明治20)年1月に叔父義房の養子となった。
この頃まで宇田義房は内閣属官(下級官吏)をしていたが、1889年以降は民業に転じて兄廉平と対照的な道を歩み始めていた*24。宇田尚は現実的で商才に長けた養父から実社会で生きる術を学んだと思われる。
養子となった年に牛込区の赤城尋常小学校に入学したが、「あまりのあばれんぼうで叔母が驚いて*25」3年で栃木に戻され、1891年に上永野尋常小学校を卒業した。以後、激しい農作業の傍ら毎日2時間、小学校訓導の国枝氏から孟子、国史略(1892)、日本外史(93)、十八史略(94)、文章規範、蒙求(95)を学び、身長五尺六寸余(約170cm)、膂力に優れ漢籍の知識豊かな青年に育った。

鹿沼市立永野小学校(2006年撮影)。宇田尚によれば往時は寺を校舎としていたという。後に宇田尚は同校(永野尋常高等小学校)に奉安殿を寄付(1934年)、1945年に東洋女子歯科医学専門学校が空襲で焼失した際は同校(永野第一国民学校)校庭にバラックを建てて東洋女子歯科医専付属医院分院として教育機能の疎開を図った。
1897年に実父廉平が退官して現金収入がなくなった。同年、愿次郎が村内で結婚するが妻の実家は「かつて富裕であつたが、その頃は没落(略)宇田家の家運も傾き*26」、寛は東京で勉学中、旧制静岡中学校に進学した清は同年病没、大家族の生計を担った宇田尚青年は村で生産される木炭を仕入れ、栃木町で販売する行商を始めた。往復約12里(48㎞)を当時は荷駄で担送するのが一般的だったところ、馬車を使って輸送効率を高め、翌年はこれを2台に増やし、1899年には「家運が逐次恢復*27」、経営の才を見せはじめていた。
1901(明治34)年、宇田尚は徴兵されて野戦砲兵第二旅団野砲兵第十六連隊(千葉県東葛飾郡市川町国府台)に入営した。愿次郎は前年に入営してこの年に帰休除隊し、「炭買馬車ひきの家業を兄愿次郎に引き継いだがこの事業は間もなく失敗*28」した。
1904(明治37)年2月に日露戦争が始まった。徴兵の下級兵士ながら陸軍幼年学校教授の子息で漢文の素養があり、体格に優れ、馬の扱いにも長けた宇田尚は小隊長(男爵)井田磐楠少尉(後少佐 1881~1964)の下で伍長勤務上等兵になっていた。野戦砲兵第二旅団は乃木希典陸軍大将を軍司令官とする第三軍に編成されて旅順要塞攻囲戦に投入され、宇田尚も三一式速射砲(野砲)の砲車長として出征した。愿次郎も応召出征し、瀧之原宇田家は壮丁の不在で再び困窮することになる。
旅順で苦戦した第三軍は11月27日に正面攻撃を中止し、攻撃指向を二〇三高地に転換した。宇田尚の属する連隊の第一大隊副官荒蒔義勝中尉(後中将 1876~1959)の回顧その他*29に拠れば、龍眼北方に布陣して松樹山、二龍山を攻撃していた連隊の位置から二〇三高地は概ね射程圏内ながら、射角上約30㎜の高低角があって僅かに届かないと思われた。大隊本部書記となっていた宇田尚は荒蒔中尉に対し、砲架尾側を掘り下げ仰角を上げることで積極攻撃を進言した。荒蒔は射向を90度転換してロシア軍に側面を曝すことを危ぶむ中隊長らを説得し、第一小隊(井田小隊)の砲1門または2門で修正しつつ試射した結果、二〇三高地背後への弾着に成功した。これを連隊に電話で報告すると連隊副官から「此の弾丸がないのに六千以上の射角で弾丸を射つやつが何處にあるか」と非常に叱られたが、連隊長が現場に来て状況を理解し、旅団に報告して全力でこれに倣うよう図った。荒蒔らは、これも二〇三高地攻略の一つのきっかけと主張している。
軍は12月5日に二〇三高地を完全占領、旅順は1905年1月1日に開城した。宇田尚は連隊書記として鉄嶺に転戦し奉天会戦に参加、この間に旅順で坑道戦を指揮した軍工兵部長・榊原昇造工兵大佐(嘉成、後中将 1859~1940)の知遇を得た。後に宇田家と榊原家は縁戚関係を結び、榊原と井田は財団法人東洋女子歯科医学専門学校(現 学校法人東洋学園)協議員となる。


財)東洋女子歯科医学専門学校協議員・井田磐楠(指定後17回卒業アルバム1942年)と同校の校友会誌に寄稿した荒蒔義勝(『東洋女歯校友』卒業生一千名記念特集号 1936年)

旅順作戦中の第三軍司令部を連合艦隊首脳が訪問した際の撮影。前列中央に連合艦隊司令長官東郷平八郎海軍大将と第三軍司令官乃木希典陸軍大将、乃木から右二人目が工兵部長榊原昇造大佐と思われる。(学習院輔仁会『乃木院長写真帖』 1913年 宇田家蔵)
右上は榊原主計追悼録刊行会編『榊原主計』(1985年)所収の榊原昇造。昇造の長男主計も陸軍将校から学校法人東洋学園理事に転じた。
戦争中の1905年に兄の寛が病没、3月3日に宇田愿次郎が唐家屯北方高地夜襲戦で下腿銃創を受けた。9月5日に米国ポーツマスで講和条約が調印されて戦争が終わり、1906年に愿次郎、尚とも除隊帰郷した。下士官に任官(時期不詳)していた宇田尚は軍に残るよう勧められたがこれを辞退し、瀧之原の家が「衰亡の極に達していることを認め(略)一家の推進力となり、明治39年4・5月頃から家政改革について徹底した処置をとった*30」。
滝之原宇田家改革ニ関スル誓約書
我家滝之原ハ父廉平ノ統轄シ給フ所ニソアリケル明治三十五年頃ヨリ種々不運ニ遭遇シ明治三十九年度ニ及ヒ実ニ将来ノ維持法困難ナル情態ナリキ余ハ此期ニ凱旋シ深ク一家ノ垂頽ヲ憂ヒ左ノ援助金ニ依リ家政改革ヲナス
一、金四百拾五円 宇田義房
一、金弐百拾七円 大和十津川村旧門生
一、金壱百円 宇田尚
若シ此改革法ニ依テ後継者タルモノ爾来一家ヲ維持スル能ハサルモノトセバ之レニ由テ一家破滅ノ禍ニ及ビ益々困難ニ陥ラシメ流離頽沛往クニ家ナク帰ルニ処ナク共ニ飢寒ニ泣クノ惨状ヲ呈セシムルニアラスンバアラス
故ニ祖先ノ墳墓ヲモ守ル事ヲ得ヘカラサラントス
明治三十九年五月 宇田尚
このほか家政維持法ニ関スル規則、滝之原家改革ニ関スル金銭出納表、滝之原宇田家改革ニ関スル草稿(家政改革法)など詳細な記録*31が残っており、家政ではあるが経営者としての資質が窺える。
同年11月25日に宇田廉平が他界した。
1907(明治40)年、宇田尚はあらためて義房の養子となり、同年9月に井田男爵の周旋と榊原少将の推挙により北白川宮の家従(宮内省雇員)となった。近代の男子皇族は軍人になることが義務づけられており、陸軍士官学校に在学していた北白川宮成久王(1887~1923)の身近に優秀な予備役の下士官を置くよう図ったのである。
榊原昇造日誌*329月6日「北白川宮に参り(略)清岡大尉と北白川宮御家人補充の事を相談す」、23日「宇田砲兵曹長、水戸部騎兵曹長を引見す清岡騎兵大尉も亦来り会す 是れは北白川宮に家従心得に推挙せん品定めの為なり」、25日「清岡大尉麻生北白川宮家令より水戸部騎兵曹長宇田砲兵曹長共に採用と決定せし旨返報し来る」。
榊原昇造は士官学校教官時代に先代能久親王が生徒だった縁で北白川宮の相談役的立場にあり、井田磐楠は退役して同宮家別当となっていた。

左より宇田尚、朝香宮鳩彦王、北白川宮成久王、有馬頼寧伯、竹田宮恒久王(北白川宮能久親王第一王子)、武官、東久邇宮稔彦王、文官、二荒芳之伯(能久親王五男)。
撮影場所不詳、1907~09年間。 写真蔵:宇田(江澤)家
北白川宮雇員であった間に宇田義房夫人浦の姪で千葉県朝夷郡岩糸村(現 南房総市岩糸)の商家、庄司伊平の次女愛(1883~1982)と結婚した。宇田愛については第3章1節で述べる。1908(明治41)年春、日本女子大学校(現 日本女子大学)英文学部本科卒業を控えた庄司愛との見合いの席は同校の近くで庄司愛が奉仕する同仁キリスト教会のある小石川区高田老松町に設けられた。当日は桜吹雪が舞っていたとのことである。結婚は6月30日、披露宴は上野黒門町の名門料亭伊予紋で催された。夫妻は長男忠順(1910~1923)、長女房(1914~2000)、次女富(1916~2008)と三人の子女に恵まれたが、東京高等師範学校附属中学に在学中、結核に罹患して千葉県北条町で転地療養中の忠順を関東大震災で喪った。
また、北白川宮邸で子爵青山幸宜(1854~1930)と出会った。青山幸宜は美濃国郡上藩最後の第7代藩主で貴族院議員の傍ら華士族授産を目的に設立された十五銀行(国立第十五銀行)頭取、日本鉄道取締役を歴任、ほか玉川電気鉄道取締役、岩倉鉄道学校理事などを務めた華族実業家である。
後に青山も東洋女子歯科医学専門学校と関わり校長となる。その際の履歴書*33に「常宮内親王殿下御教育ニ任スル」とあり、常宮とは明治天皇第6皇女で北白川宮成久王の異母兄、竹田宮恒久王妃昌子内親王である*34。北白川宮で宇田尚の同僚だった水戸部孚の回想*35によれば竹田宮は紀尾井町の北白川宮邸に同居しており、このため常宮ご養育係の青山幸宜と成久王に近侍する宇田尚が宮邸で接触したのだった。
青山幸宜の勧めで宇田尚は実業界への転身を決意し、1910(明治43)年に北白川宮家を辞して28歳で中央大学専門科経済学科*36に入学、1912年7月に卒業した。同月30日に明治天皇が崩御して大正に改元される。
卒業後に青山家相談役を委嘱され、同家の家政を司るとともに玉川電気鉄道に入社した。ほどなく同社を退社し、以後も青山と青山の五男で羽後国亀田藩(秋田県由利本荘市)の旧藩主家養子となった岩城隆徳(1890~1979)と経済活動を共にした。宇田尚は実父が金沢藩士時代に親交のあった同地の豪農相川文五郎の子息で神奈川県久良岐郡金沢町の相川文五郎(7代)の長女文と岩城隆徳の婚姻を斡旋している。
1918(大正7)年に日本ペン先株式会社、翌年は日東印刷株式会社の設立に関わり、後者は本郷区真砂町(現 本郷1丁目)にあって宇田尚の主力事業となった。後に宇田尚は若い従業員のために学費、寮費、食費一切不要の夜間学校、日東専修学院を設け、1934年から39年にかけて同社で働きながら宇田尚に師事した社員*37は、第二次大戦後に復員すると津田沼の仮校舎にあった東洋女子歯科医学専門学校、旧制東洋高校の事務を執って宇田尚・愛夫妻を援けている。
1919年6月8日の読売新聞は本郷区「湯島天神町の宇田尚氏の設計に成つた日本最初の共同住宅(アパートメントハウス)」を同区根津片町に取材している。従軍中と変わらず創意に富む事業を幾つも手掛けていたことが窺われる。
1914年に開戦した第一次世界大戦でドイツとの国交が断絶し、ドイツ製医薬品に頼る日本の医療に深刻な影響が生じた。このため他の国からの医薬品輸入と見返りの我が国産物輸出を企図した大陸貿易株式会社が設立され、青山、宇田は1917年に参画して会社を宇田邸に置いた。同社は日本耳鼻咽喉科学会創設者で大学昇格後の東京慈恵会医科大学初代学長となる金杉英五郎(1865~1942)らの設立によるもので、金杉は東京歯科医学専門学校の監事*38として歯科教育にも関与していた。大戦終結後の大陸貿易は北海道と樺太で医薬品原料となる薬草栽培を試みたりしたが、やがて事業を停止して人脈が残った。
一方、「其の頃兄愿次郎は製糸業に失敗し、全資産を人手に渡すの止むなきに至つた*39」。
宇田尚と青山、岩城、井田、金杉は揃って1926(大正15)年9月8日認可で財団法人明華女子歯科医学専門学校(10月11日「東洋女子」名称変更認可)協議員に就任、湯島天神町1丁目103番地の宇田邸で9月10日に開催した第1回新理事会で岩城隆徳が理事長に、宇田尚は常任監事に選任された*40。
青山幸宜はのち理事となり、1928(昭和3)年から他界する1930年まで校長事務取扱を経て校長の職にあった。1928年末に宇田尚が理事長に就任し、1930年10月22日認可で校長を兼務した。金杉英五郎は1942年に他界するまで顧問・協議員の職にあった。



左)青山幸宜 東洋女子歯科医学専門学校指定後第4回卒業アルバム 1929年
中)岩城隆徳 東洋女子歯科医学専門学校指定後第2回卒業アルバム 1927年
右)金杉英五郎 東洋女子歯科医学専門学校『学校一覧』(入学案内書) 1930年

左より長女房、宇田尚、次女富、愛夫人 写真蔵:宇田(江澤)家

1936(昭和11)年10月9日、宇田尚の長女房は榊原昇造三男の榊原帯刀*41(1906~1937)と結婚した。帯刀は旧制第三高等学校(京都)を経て東京帝国大学工学部航空学科を卒業、第1回日仏交換留学生として1932年9月から1935年秋までフランス、パリのEcole Superieur de Reronantiqueに留学し、帰国すると三菱重工業株式会社名古屋製作所に入社した。同僚に海軍零式艦上戦闘機設計主務の堀越二郎らがいる。
1937年9月18日、後に宇田の家名を負う長男正長が出生した。
同年10月27日、岐阜県各務ヶ原飛行場で自身が設計に携わった三菱ひなづる型軽旅客機(英国エアスピード社エンボイ改設計)1号機の試験飛行に同乗した。同機は離陸直後に失速墜落し、帯刀は重傷を負って救助されたが翌日殉職した。短い活動期間中、同機と海軍十一試機上作業練習機の設計に携わった。
追悼集『榊原帯刀』(1942)の序で、宇田尚は「予は之(注:正長)に対し、亡き父の純粋なる精神を伝へねばならぬ祖父としての責任を痛感し、本書の編纂を企てた」と述べている。
榊原昇造の長男隼人は早世し、次男主計*42(1901~1984)は陸軍軍人(終戦時大佐、参謀本部総務課長)、戦後は学校法人東洋学園常任理事、顧問として東洋女子短期大学を支えた。長女(三上)雅樂、三女(大久保)齋宮も長く同短期大学の事務を執った。次女采女については次に述べる。宇田正長(1937~2003)は慶応義塾大学医学部を卒業して外科医師となり、1968年から学校法人東洋学園評議員、常任理事(1983)、東洋女子短期大学副学長(1986)、法人理事長(1992)、東洋学園大学学長(理事長と兼務2002)を歴任した。主計の長男正明は日本電気株式会社(NEC)を定年退職後、東洋学園企画開発本部長に在職中の2007年7月に他界、同年8月に東洋学園大学教務部・学生部事務部長に正長次男の宇田隆生が就任し、企画開発本部長を経て2025年現在、法人本部事務局長。

馬渡一得*43(1894~1974)は長崎県南高来郡大三東村に生まれ、旧制第五高等学校(熊本)を経て1922(大正11)年に東京帝国大学医学部を卒業、内科医師(衛生学、薬物学)となった。
1924年、鉄道省(現 国土交通省・JRグループ)に入省し、1931年に医学博士の学位を取得した。官命により同年12月から1933年8月までアメリカ、ドイツで在外研究にあたり、帰国後は東京鉄道病院医長、仙台鉄道病院副院長を経て1943年4月より名古屋鉄道病院長(高等官二等)。
榊原昇造の死去による1940年9月の改選で財団法人東洋女子歯科医学専門学校協議員に就任した。1943年より理事、同校の空襲被災と敗戦による混乱を打開するため1945年9月に運輸省(旧鉄道省)を辞職、岳父宇田尚の公職追放に伴い1946年3月1日より校長、1947年に旧制東洋高等学校を設置して同校長を兼務した。未曽有の混乱期に旧制大学昇格、新制大学設置に向け全力で努力したが実らず、代替として1950年5月に開学した東洋女子短期大学(英語科)の初代学長となった。畑違いの新設校立ち上げの辛苦を6年担い、1956年5月に学長の職責を義弟愛知揆一に譲って台東区東黒門町で東洋内科医院を開業した。
榊原昇造の次女采女と結婚し、一男一女(長男一真は日本国有鉄道副総裁、日本テレコム株式会社社長)を設けたが1938年に妻と死別、昇造三男帯刀と死別した宇田尚長女房と再婚した。馬渡房*44は母と同じ日本女子大学校で学び、終戦前から東洋女子歯科医学専門学校の校務に携わるようになった。東洋女子短期大学では夫、義弟の両学長を援けて学長事務取扱、副学長を務めた後、1965年より学長(~91)、1975年から宇田愛の後任として理事長(~92)を兼務、同短大の草創から全盛まで長期に亘り指導した。
馬渡一得・房夫妻の長女絢子は次に述べる愛知揆一・富夫妻の養子となり、婿養子に迎えた愛知和男(1937~2024 防衛庁長官、環境庁長官など)とともに同家を継承、次女玲子は江澤雄一(1939~ 在英日本大使館公使、大蔵省国際金融局長など)と結婚した。愛知和男は学校法人東洋学園評議員、江澤雄一は宇田正長の後任として学校法人東洋学園理事長を務めた(在任2003~17)。2025年現在、次世代の愛知太郎がDOWAメタルマイン株式会社勤務を経て学校法人東洋学園理事長(在任2017~)、江澤郁子が東洋学園大学教務部教務課長として勤務。

愛知揆一*45(1907~1973)は物理学者愛知敬一(1880~1923)の長男として東京に生まれ、1911年の東北帝国大学理科大学(現 東北大学理学部)設置に際し教授に就任した父に伴い仙台へ移った。
旧制第二高等学校(仙台)を経て1931年に東京帝国大学法学部を卒業、高等試験に合格して大蔵省に入省し、官房長、銀行局長を経て1950年より政界に転じ自由党(自由民主党)に属して参議院議員、1955年より衆議院議員となった。
1954(同29)年に通商産業大臣、以後、内閣官房長官(1957~58、66)、法務大臣・自治庁長官(1958~59)、文部大臣・科学技術庁長官(1964~65)、外務大臣(1968~71)、大蔵大臣(1972~73)を歴任した。外相在任中に沖縄返還、蔵相在任中に通貨(円)の変動相場制移行があった。
1936年5月28日、宇田尚の次女富と結婚した。1937年に財団法人東洋女子歯科医学専門学校協議員となり1940年より理事、戦後は義兄馬渡一得の後を継ぎ東洋女子短期大学学長に就任した(在任1956~64 法相在任時中断)。学生が学校に寄せる期待は専ら英語の実用的な運用能力修得にあったが、愛知学長は短期大学が「単なる職業教育」の場でないことを強調して教養主義を唱え*46、後任の馬渡房学長もその姿勢を堅持した。
愛知揆一名誉学長(在任1964~)は第二次田中角栄内閣の蔵相在任中、過労から体調を崩し1973年11月23日に急逝した。
富夫人も日本女子大学校に学び、姉の馬渡房とともに終戦直後の1945年9月10日より財団法人東洋女子歯科医学専門学校協議員に就任、学校法人東洋学園に改組(1951)後も評議員を務めたが、夫が政治家となった後は内助に徹した。夫妻には実子がなく、養子を入れて家名を維持した(前述)。

直接の後継者ではないが、最後に宇田尚の甥、宇田儉一*47(倹一 1896~1975)について触れたい。次兄宇田愿(源)次郎の次男である。1914(大正3)年に海軍軍医学校入学、海軍委託生として慈恵会医科大学で学び海軍軍医となった。1921年の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)欧州歴訪に際し、戦艦鹿島乗り組みの軍医として随行した。戦間期に退役して慶應義塾大学医学部神経科医局で学位を取得、精神科医として活動する傍ら、1931年から財団法人東洋女子歯科医学専門学校協議員(宇田愿次郎在任1928~31)、同校で衛生学を担当した。
1939年、現在の府中市に宇田病院を開院し、手つかずの自然が残る武蔵野で精神障害者の自由と自主性を尊重する先進医療を実践した。1943年、長女美智子が精神科医で歌人の斎藤茂吉の長男茂太に嫁いだ。現在の医療法人財団赤光会斎藤病院は1903年に斎藤紀一が創設し、27年から茂吉が院長を務め、45年に東京都へ委譲して一度断絶した青山脳病院と宇田病院を継承している(1951年、宇田病院を斎藤茂太が継いで斎藤病院に改称)。
斎藤美智子は父について「漢籍の素養も深く、篆刻もでき、書をよくし、南画もガラス絵もたしなむ、そして、テニス、乗馬、水泳、登山、スキーなどあらゆるスポーツに堪能で、類稀な人格者*48」と追懐している。漢籍の素養は祖父宇田廉平の薫陶によるものである。知的かつ端正な文体で滋味溢れる随筆を書き、瀧之原宇田家の記録を残した。
宇田愿次郎は経済的失敗から瀧之原宇田家当主の座を降りたが、詩文を愛する気質は愿次郎・儉一の系統に濃く受け継がれたと見るべきだろう。
日本への西洋歯科医学の伝来は1865(慶應元)年9月、香港、上海で歯科診療所を営んだアメリカ人歯科医師W.C.イーストレーキ(William Clark Eastlake 1834~1887)が横浜に来港し、10月から同地の外国人居留地で開業したことを以て嚆矢とする。「当時の日本の歯科医術は非常に幼稚なもの」(イーストレーキ子息夫人の回顧)だったので、外国人歯科医師が居留地に住む外交官、商人らの口腔疾患を治療した。日本人には高額な治療費だったが、外国人の紹介で治療を受けた政府高官などの間から西洋歯科医学に対する理解が広まっていった。
低水準と見なされた日本在来の歯科医術であるが、木床義歯の製作技術は世界水準を抜いていた。欧米の総義歯は上下後部に装着したコイルスプリングで圧着していたが、スプリングがなくとも上顎に吸着することが1800年に米国で偶然発見された。これに対し、日本ではこの原理を用いた木床の総義歯を16世紀から実用していたことが確認されている。これは入歯師という職人の仕事である。
このような優れた職人技は存在したものの、口腔と咽喉を併せた領域を扱う口中医(口医、歯医、口歯科)は外科学から発達した西洋歯科医学と全く異なる漢方医であり、特定の階級を対象とする少数の存在だった。社会に歯磨きの習慣が広まって房楊枝(歯ブラシ)、歯磨砂(粉)の製造販売が商業化し、歯痛などの口腔疾患には口中医や入歯師が調合する口中薬があり、成人女性の鉄漿(お歯黒)にも齲蝕予防の効果があった。しかし大方は神仏への祈り、まじない、非科学的な民間療法にすがり、最後は歯抜師の抜歯に頼るほかなく、歯抜師には啖呵売で客を集め露天で商売する香具師も含まれた。香具師は歯痛止めの薬も売った。
近世の日本は伝統医学が独自の発達を遂げる一方、長崎を通じて医学をはじめとする蘭学(洋学)を受容していた。西欧の進んだ科学と制度を取り入れて近代化を図り、列強の軍事的経済的進出に対抗することが国策となり、医学は近代国家の運営に不可欠な医療・衛生制度を担う学問として位置づけられた。その教育研究のため官公立の医学校、大学が設立されていったのに対し、歯科医術を学問と見なさなかった国は歯科医師の養成に関心を示さなかった。このため西洋歯科医の養成は民間の先覚者に委ねられることになる。
1874(明治7)年8月、新政府は太政官布告で医療・衛生制度の指針を示す「医制」を東京・京都・大阪の三府に布達した。文部省医務局は内務省に移管され衛生局と改称、1875年2月に内務省は新たに医業を開業する者に対する医術開業試験の実施を三府に布達し、翌年9月から全国に拡大した。近代国家建設の基盤は人材育成にあるが、教育制度も整備途上の段階であり、国は西洋医学の臨床医を普及させるため学歴を問わない検定試験制度を設けたのである。
歯科医療の分野では、外国人歯科医師が施術に必要な助手を雇い、徒弟修業によって知識と技術を吸収した日本人助手の中から歯科医師を志す者が現れるようになった。米国人歯科医師G.エリオット(W.St.George Elliott)に師事した小幡英之助(1850~1909)が第1回医術開業試験で口中科を受験して合格し、歯科専門の医師として公許初の日本人となった(この時点で歯科医師の業務と身分は確立されていない)。豊前中津藩士の家に生まれた小幡は慶應義塾の塾長を務めた小幡篤次郎の甥で自身も慶應義塾で学んでいる。こうした外国人門下のほか、米国に留学して歯科医学を学ぶ者も出てきた。
1883(明治16)年10月、内務省は太政官布告で「医師免許規則」、「医術開業試験規則」を公布(施行翌年1月)、専門科ごとの旧試験を廃止して統一した試験(前期試験と後期試験、後に学説試験と実地試験)を策定する一方、「歯科之儀ハ普通外科術ト稍異ナル所モ有之」、付則として歯科試験科目を定めた。1884年から新たな医術開業試験合格者と(旧)東京大学医学部、甲種医学校の卒業生に医術開業免状を交付し医籍に登録、医術開業歯科試験(歯科医術開業試験)合格者は医籍から分離して歯科医籍に登録した。歯科医籍第1号は東京府士族青山千代次である。
在来の歯抜師、入歯師(従来家)は1885年に布告された「入歯歯抜口中療治接骨等営業者取締規則」による鑑札制度で行政の監督下に置き、次第にその営業に制限を加え、1906(明治39)年の歯科医師法で従来家の医療行為を禁じた。
開業試験合格者、外国で修学した者、従来家、それぞれのグループから開業試験の受験対策として講習会を組織する動きが現れる。小幡英之助門下の歯科交詢会(1887)、従来家高橋富士松らの歯科矯和会(1888)などである。
学校の形を整えたのは1888年4月に設立された東京歯科専門学校を初とするが8月に分裂廃校し、現存最古は1890(明治23)年1月に開校した高山歯科医学院(現 東京歯科大学)である。創立者高山紀齋(1851~1933)は備前国岡山藩士の家に生まれ、戊辰戦争に従軍後、慶應義塾に学び、英学を学ぶため1872年に渡航した米国で歯科医学に転向、同国の歯科医師免許を得て1878年に帰国した。高山歯科医学院は後に東京歯科医学院と名を改め、東京歯科医学専門学校(旧制専門学校)、旧制の東京歯科大学から新制大学へと変遷する。後に東洋学園(の前身)も歯科医学講習所、歯科医学校、歯科医学専門学校と同じ階梯を踏んでいくのである。
開業試験の受験予備校(各種学校)として生成発展した私立医学校、歯科医学校を含む多様な分野の私学に法の網をかけ、正規教育に取り込む意図を持った専門学校令が1903(明治36)年3月27日に公布された。旧制専門学校は同法並びに公立私立専門学校規定に準拠し、旧制高等学校・大学予科(教養課程)を要さず旧制中等学校・高等女学校(中等教育)から接続する大学より下位の専門職業教育機関と位置づけられた。この際、野口英世らが学んだ代表的な私立医学校である済生学舎が自主的廃校を選択している。
1906(明治39)年5月に医師法(旧法)が公布され(施行10月)、医師の身分、業務が改めて規定された。前年の医師免許規則改正により、私立医学専門学校(医専)卒業生に官公立と同等の無試験で医師免許を交付する要件として文部大臣の指定を受けることが医師法で規定された。学歴を要さず受験者の水準がまちまちな医術開業試験は経過措置を経て1916(大正5)年に廃止され、帝国大学(総合大学)以外の官立単科大学、私立大学の設立を認める1918(大正7)年の大学令により、単科の医科大学、医学部を包摂する私立総合大学が発足した。この結果、研究医が増え臨床医の供給が減って新たに医専が設立される動きがあったものの、医学教育は原則として大学レベルに統一された。
医師法と同じ1906年に公布施行された歯科医師法(旧法)は、歯科医師免許の交付要件として同法第1条第1号で文部大臣が指定する歯科医学校の卒業者とした。歯科医学校としたのはこの時点で歯科医学専門学校(歯科医専)が存在しないからである。同年の公立私立歯科医学校指定規則(文部省令第17号)で指定要件、即ち実質的な歯科医学専門学校の基準を定め、以後、大正期を通じて昭和初期までに歯科教育は原則として専門学校レベルに統一され、大学昇格は第二次世界大戦後となる。
1907(明治40)年に東京歯科医学院(旧高山歯科医学院)が東京歯科医学専門学校に改組認可、中原市五郎らによって同年設立された講習会の流れを汲む共立歯科医学校が1909年に日本歯科医学専門学校(現 日本歯科大学)として改組認可され、両校とも1910(明治43)年に文部大臣の指定を得た。1909(同42)年設立の東京女子歯科医学講習所は後述する。1912(同45)年設立の大阪歯科医学校が1920年に大阪歯科医学専門学校として指定(現 大阪歯科大学)、1914(大正3)年設立の九州歯科医学校が1925年に九州歯科医学専門学校として指定(現 公立九州歯科大学)、1916(同5)年設立の東洋歯科医学校が1924年に日本大学専門部歯科として指定を得た(現 日本大学歯学部)。これらの学校の修業年限は予備校時代の1~2年から3年制を経て4年制に延長された。
また、歯科医師法第1条第2号で新たに設けた歯科医師試験のため、1913(大正 2)年に歯科医師試験規則を定め1924年より試験を実施、開業試験を廃止した(予定1919年)。歯科医師試験は指定専門学校による養成に完全移行するまでの経過措置として受験資格に中等教育(中等学校または修業年限4年以上の高等女学校)卒業と修業年限3年以上の歯科医学校卒業を求めた。昭和戦前期も歯科医師試験と指定を要さない3年制歯科医学校は存続するが、本稿では触れない。
試験の実施と私学の監督にあたる官庁は1917年に文部省医術開業試験附属病院から同省歯科医術開業試験附属病院として分離し(医科は東京帝国大学医科大学附属病院小石川分院に改組)、1922年に文部省歯科医師試験附属病院と改称した。この組織を母体に初の官立校である東京高等歯科医学校(東京医科歯科大学を経て現 東京科学大学歯学部)が1928(昭和 3)年に設置され、翌年開校した。
18~19世紀半ばの欧州の都市で歯科治療に従事した女性の存在が報告されているが、近世の日本で同種の女性が存在したことを示す資料はない。口中医は一般的な存在でなく、大衆社会における口中療治者は職人、商人としての性格が濃かったと思われる。1860年代に米国で歯科医学校が女性を受け入れ、歯科医師の資格を得る道が開かれた。
日本の公許女性歯科医師は1894(明治27)年に医術開業歯科試験に合格し、歯科医籍第235号で登録された高橋孝(1872~1940)が初とされる。父は歯科矯和会を組織した従来家の高橋富士松で、長女の孝は明治女学校を経て1888年から歯科矯和会、同年または翌年から済生学舎、90年より高山歯科医学院で学び、有力な歯科医師にも師事した。同時期の済生学舎には後に東京女医学校(現 東京女子医科大学)を創設する吉岡彌生が1889年に入学している。なお、公許初の女性医師は1885(明治18)年に合格した荻野吟子で、それ以前にも女医は存在していた。
高橋孝から13年後、1907(明治40)年に10人目の女性歯科医師となった杉本ノリ(1885~1950 歯科医籍第939号)は宮城県仙台の歯科医家に生まれ、義兄と同じ東京歯科医学院に学んで開業試験を受験した。この時点で受験予備校の同校は男女共学である。それより12年後の1919(大正8)年に合格した松尾タクヱは女性約50人目(1897~1967 歯科医籍第5343号)、1913年に大分県下毛郡津民から上京し、医院、歯科医院で住み込みの徒弟修業をしつつ高山歯科医学院で学んだ歯科医師が設立した夜間の東京歯科医学講習所で学んだ。杉本ノリから松尾タクヱの間に東京歯科は専門学校に昇格し、男子校となっていた。吉岡彌生が東京女医学校を設立した動機は母校済生学舎による専門学校昇格に備えた女子学生の排除にあったが、歯科教育にも同じような状況が生じていた。
一方、同様に男子校となった日本歯科医学専門学校では、開校と同時に夜間の附属日本歯科医学校を新たに設け、午後1時から4時は男子と同じカリキュラムの女子部を有する先進的な学則を制定し、女子教育の継続を図ったことが窺われるが、同専門学校附属医院長の大久保潜龍(1871~1942)は既存の共立(日本)歯科医学校に在籍していた女子学生を引き抜き、自ら東京女子歯科医学講習所を設立した(1909)。大久保は米国留学で歯科医師となり、さらにドイツで学んで帰朝した人物である。
同講習所は翌1910(明治43)年に東京女子歯科医学校として認可され、1922(大正11)年に東京女子歯科医学専門学校となり(同時に財団法人設立)、1927(昭和2)年に指定を得た。1934年に日本女子歯科医学専門学校と改称、戦後は日本女子歯科厚生学校、日本女子衛生短期大学を経て1964年に神奈川歯科大学となって現在に至っている。戦後、東洋女子歯科医学専門学校(本学)卒の和久本文枝とともに全国婦人歯科医会を組織した向井英子(東京女子歯科医学校1913年卒)は要旨「日本歯科大学が専門学校に昇格した際、女子学生を排除してその前途は暗黒となった。同校教授大久保潜龍先生が奮起し女子学生に救援の途を開いた」(日本女子歯科医学専門学校開校七拾年記念誌)と記し、大久保の分離独立を正当化している。
女性歯科医の養成数は1894年から1919年までの四半世紀で僅か50名に過ぎなかったが、明治期は男性歯科医の養成もペースが遅く、歯科医学校の設立が相次いだ大正期を通じて急増している。女子歯科医学校が設立され、指定専門学校に整う過程で女性歯科医の養成数も上がっていく。その間、指定専門学校としては最後発の1917(大正6)年に東京女歯から分離発足したのが本学の前身である明華女子歯科医学講習所(歯科医学校・歯科医学専門学校)である。
1872(明治5)年に近代的教育制度の指針として「学制」が公布されて以来、男子より低位だった女子の初等教育就学率も着実に向上し、より上級の学校として公私立の女学校が設立されていった。これに応じて女子中等教育に関する法令の整備が進み、1899(明治32)年に高等女学校令が公布施行された。高等女学校は1910(明治43)年の193校から1913(大正2)年330校に急増する一方、国はキリスト教ミッションなどの宗教教育を禁じ、良妻賢母主義に基づく中等教育を受けた女性の社会参加は育児天職論に適う初等教育など狭い分野に限られた。初等教育教員は女子師範学校(中等教育)で養成され、その師範学校の教員を養成する官立の女子高等師範学校(高等教育)が東京、奈良に設立された。また、前述したように医学も女性が進出可能な分野として1900(明治33)年に東京女医学校が設立され、1912年に東京女子医学専門学校(高等教育)として改組認可、1920年に文部大臣指定を受けた。
総力戦となった第一次世界大戦(1914~18)の欧米主要交戦国では女性が労働力として動員され、その結果として女性の社会進出が促された。日本では大正デモクラシー、大正自由主義の空気も反映して女性の活動分野が広がり、化学戦でもあった大戦の経験から女子教育も良妻賢母主義から科学教育の重視に転じた。
大正期は大戦の特需景気による好況を背景に、高等学校令・大学令(1918年)などによる高等教育の拡充が推進された。1913年に東北帝国大学理科大学化学科が黒田チカら3名の入学を許可するなど大学における女性の受け入れが試行されたが、第二次世界大戦後まで女子高等教育は主に女子専門学校が担った。1919(大正8)年から1940(昭和15)年の間に8校設立された公立専門学校のうち6校が女子校である。私立専門学校は57校(文学・宗教系31、薬学11、医歯学9、経済2、芸術2、体育1、家政1)設立され、うち女子28校である。これらの公私立専門学校で医歯薬学系が20校を占めたことは資格(免許)と直結する職業教育の需要の大きさを示し、1921(大正10)年に専門学校として認可された明華女子歯科医学専門学校(本学)はこのカテゴリーに入る。
専門学校は1920年の74校から1940年121校に(1.6倍)、在籍生徒数約22,000人から88,000人に(4倍)、女子は1,677人から19,900人へと11.9倍の増加を示し、女子の高等教育就学率は0.6%から1.2%に上昇した。国は「専門学校が女子高等教育の機関として果たした役割の大きさ」を評価している(文部省『学制百年史』)。
東洋学園は、近代日本における歯科医学、教育制度、女性の社会参加、それぞれが発達の過程で交わる大正期に設立された。学校は開業試験の講習所から予備校を経て旧制専門学校に至る歯科教育の成長ステップを踏襲し、宇田尚がその経営に携わる1926(大正15)年に文部大臣の指定を受けて完成した。