東洋学園大学 100周年

43年間の教員生活を振り返って(1977年4月1日~2020年3月31日)

2020年からのコロナ禍により、大学の学園祭はオンライン開催が続いていたが、2022年にはハイブリッド形式で行われ、キャンパスに賑わいが戻った。
その年の10月16日、東洋女子短期大学と東洋学園大学で学生に親しまれていた田中菊子先生が、2020年の退職以来久しぶりに来校し、プレゼンテーションを交えながら教員生活を振り返る講演を行った。本稿は、その講演の内容を先生ご自身に要約していただいた講演録である。

東洋女子短期大学 元教授東洋学園大学 元人間科学部学部長 田中菊子

1.はじめに

本日はこのような場にお招きいただき、誠にありがとうございます。また、学長先生からご挨拶を頂戴し、心より感謝申し上げます。
今回の講演のお話を学生支援課からいただいた際、最初はお引き受けするか迷いましたが、卒業生の皆さんに向けたお話ということで、思い切ってお受けすることにしました。少し気恥ずかしさもありますが、今は皆さんの前でお話しできることを光栄に思います。
また、新型コロナウイルスの影響で様々な制約がある中、こうして直接お会いできることを大変嬉しく思います。久しぶりに本郷の地を訪れ、懐かしさとともに、卒業生の皆さんとの再会を楽しみにしておりました。
本日は、私自身の教員生活を振り返りながら、思い出話を交えてお話ししたいと思います。拙い話ではありますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
さて、東洋学園大学は今年で創立31周年、大学の学園祭も30回を迎えられたとのこと、誠におめでとうございます。私は学園祭には学生委員として関わらせていただき、大学創設期の学生たちが活躍し、成長していく姿を間近で見てきました。例えば、1年生のときに駐車場の誘導警備を担当し、一日中立ち続けて運営を支えていた学生たちが様々な経験を通したのち、学園祭運営局の中心メンバーとしてチームをまとめ上げる姿に感銘を受けていました。こうした伝統が受け継がれ、さらに発展していくことを心から願っております。

2.東洋女子短期大学との出会い

1977年(昭和52年)、体育大学の4年生として卒業を控えていた私は、東京都の教員採用試験に合格し、採用を待っている状態でした。そんな折、母校の恩師から「テニスの指導できることが条件で東洋女子短期大学から採用募集があるが、どうですか」とのお話をいただきました。とても迷いましたが、最終的に短期大学の教員という道を選びました。

面接には、学長の馬渡房先生、主任教授(大学の学部長に相当)の星山三郎先生、この年から教務部長となる森上浩先生の3名がいらっしゃいました。内容まではよく覚えていませんが、面接を終える時に「流山校舎にはテニスコート8面があり、スポーツ実技ではテニスを教えてほしい。そして特に教育に力を注いでほしい」というお言葉をいただいたことはよく覚えています。そして数日後に採用が決まり、短期大学の開学以来、長年にわたって東洋学園の理事長を務められた宇田愛先生にも直接お目にかかり、正式にご挨拶をさせていただきました。

3.東洋女子短期大学の思い出(流山校舎、授業、スポーツ祭、部活動、欧米文化学科)

私が着任する前の流山校舎は、白い3階建ての校舎と体育館だけのシンプルな環境でした(写真左)。1974年(昭和49年)頃にテニスコートが整備され、最初にハードコート4面が完成し、その後、隣にクレーコート4面が追加され、合計8面のテニスコートが整いました。

右はテニスコート開きの写真です。私が流山校舎に着任したのは、その3年後の1977年のことです。
当時、保健体育は必修科目で、学生たちは毎週1日、本郷から流山校舎へ移動し、語学と保健体育の授業を受けていました。私は月・水・金曜日に授業を担当し、授業の日は、8面のテニスコートを巡りながら、約60名の学生にテニスの技術のみならずスポーツの楽しさを伝えることを心がけて指導していました。

また、昼休みは学生や同僚と食事をともにし、交流を深めていました。左の写真に私と一緒に写っているのは、私と同じ日に授業を担当していた英語の高橋尚子先生(左側)と、菊池浩先生(中央後)、当時、流山校舎で一人事務をなさっていた大久保斉宮さん(右側)です。当時の思い出深い出来事の一つとして、「あじさい寺に行こう」と話が盛り上がり、授業の合間を利用して、全クラスで近くのあじさい寺へ散歩に出かけたこともありました。
短大では、約2,000人の学生が流山校舎に集まり、「流山スポーツ祭」という大規模な体育祭が開催されていました。

また、この頃はテニス部をはじめ、バレーボール部やラクロス部など、様々なクラブが盛んに活動しており、学生の活動が充実していた時期だったと思います。私は、着任直後からテニス部を指導していましたが、当時は学生と年齢が近いこともあって、すぐに打ち解けることができました。右は軽井沢で行われた夏合宿の写真です。テニス部は徐々に強くなり、東京都短期大学協会の体育大会で準優勝するなど、大きな成果を上げるまでに成長しました。

1982年(昭和57年)、流山校舎に欧米文化学科が開設され、キャンパスの設備も次々と整備されていきました(写真左)。教育課程も徐々に変更され、必修だった保健体育は選択科目に変わりました。選択科目への変更には賛否がありましたが、それまでは、全学生が本郷から流山に来て授業を受けており、「英語を学びたくて入学したのに、なぜテニスをしなければならないのですか?」と不満を口にする学生もいました。選択制となり意欲のある学生が集まることで、より充実した授業ができるようになり、保健体育の選択科目への変更は、結果的に私にとってありがたい変化だったと感じています。

4.東洋学園大学の開学と学生生活

1992年(平成4年)、流山キャンパスに男女共学の四年制大学が設立されました(写真左)。男子学生が入学し、これまで女子短大生だけだったキャンパスの雰囲気に変化が出ました。当時、教室内での喫煙や学生同士のトラブル、窓ガラスが割られるなどの問題行動がみられるようになり、学生委員の教員が中心となって、登下校時やキャンパス内でのルールを定め、秩序を維持し、学生生活がより良いものとなるよう、環境整備するなどの努力が重ねられました。

開学初年度の10月、四年制大学として初めての体育祭が開催されました。私は短大でのスポーツ祭の指導経験があったため、体育祭運営の手順を熟知しており、すぐに「こうすればいいのでは」と学生に助言しましたが、一期生たちは「自分たちの大学を自分たちの力で作り上げたい」という強い思いを持っており、反発することもありました。彼らは試行錯誤することで、自分たちのやり方を模索していたのだと思います。

新しい施設の整備も徐々に進められましたが、当初は充分な環境が整っていたとは言えませんでした。新しい施設が建設される一方で、短大時代から部室などとして使われていた古い学生棟が取り壊されるということもあり、部室がなくなった学生たちは決してきれいとは言えない狭いプレハブの中で着替えをしている時期もありました。
大学の開学とともに、部活動も活発となり、最初はすべてサークルとしてスタートしましたが、サッカーやバドミントン、バレーボール、バスケットボール、野球など、多くの部活が設立されました。テニス部では、関東学生テニス連盟への加盟により、1年間のサークル活動を経て正式な部に昇格しました。学生がより多くの試合に出場できるよう千葉県内の大学と連携し、「千葉県学生テニス連盟」を設立したのもこの時期です。その後、バレーボール部やバドミントン部、バスケットボール部も各連盟に加盟し、本格的に部活動が始動していきました。
第1回の学園祭は開学2年目の10月に開催されました。後夜祭ではキャンプファイヤーが焚かれ、気持ちが昂った学生が池に飛び込む場面もあり、翌年からは清掃スタッフが事前に池の掃除をするようになりました。

1995年の第3回から、学園祭は大学の所在地である鰭ヶ崎にちなんで「鰭鰭祭」と命名されました。地域との交流を深める目的で、学生たちは商店街や小学校を訪れ、地元の方々と協力しながら活動を展開しました。また、学園祭に芸能人を招くようになり、実行委員の学生たちは芸能事務所との交渉等を通して、社会人としてのマナーも学び、自分たちで後輩に引き継ぐようになりました。

私の受け持つスポーツの授業でも新たにゴルフの授業がスタートしました。その頃、理事長の宇田正長先生の理解もあり、施設拡充の一環で流山キャンパス内にゴルフの打ちっ放し練習場が設置され、学生をコースに連れて行く実習も行われるようになりました。
2003年度からは理事長が江澤雄一先生にかわり、大学では新たな入試の選抜方法の導入が検討され、2005年度からはテニス特別推薦制度が導入されました。高校時代の競技経験者が特待生として入学するようになりましたが、当時はまだテニス部としては知名度がなく、親御さんにとっても学生たちにとっても不安な状況であったと思います。親御さんから頻繁に電話が入り、長時間の対応を求められることもあり、指導が難しく感じることもありました。時には学生部長としての責任や、テニス部をまとめることに悩み、帰宅途中の車内で涙を流すこともありましたが、帰宅までの時間で気持ちを整理し、家族と過ごすことで前向きに取り組むことができました。

2008(平成20)年より、佐藤淳一先生が本学の男女テニス部監督兼コーチに着任され、二人で指導できるようになったことで、部員の指導も行き届くようになり、部内にあった問題も少しずつ解消することができました。関東学生テニスリーグで女子部は2部優勝し、1部との入れ替え戦に進出したことや、関東学生女子シングルスでの優勝、インカレ出場も佐藤監督とその指導をもとに努力した学生たちの成果だと思います。

2016年、学園は「一体型都心キャンパス」構想を打ち出し、すべての教育プログラムを本郷キャンパスに集約しました。そして2017年度の人間科学科3・4年生の授業を最後に、流山キャンパスは閉鎖されました。長年にわたり多くの時間を過ごした流山キャンパスがなくなることに寂しさを感じましたが、大学は新たな挑戦へと進んでいます。受験生人口の減少など大学を取り巻く環境は大きく変化していますが、本学の教員による熱心な教育と研究活動、そして職員の手厚いサポートがあれば、この変化も乗り越えられると信じています。

2020年3月、私は東洋学園大学を退職しました。大学と短期大学のテニス部の出身者たちが集まり、送別会を開いてくれたことが、私と東洋女子短期大学、東洋学園大学テニス部との最後の思い出となりました。

5.東洋女子短期大学、東洋学園大学の教員としての43年間

最後に、私の43年間の教員生活を振り返ります。私は多くの学生と出会い、共に学び、成長してきました。
スポーツの授業では、ストレッチを取り入れながら学生一人ひとりの体調に配慮し、運動が苦手な学生にもスポーツの楽しさを伝えることを大切にしました。また、健康教育や保健学の講義では、知識を提供するだけでなく、他者を尊重し偏見を持たない姿勢を育むことに力を入れました。ゼミ「セクシュアリティ」では学生たちとGID(性同一性障がい)の上川あや氏の講演に参加し、その性や生について学生たちと語り合いました。
東洋女子短期大学の採用面接の際、馬渡房先生からいただいた「学生たちの教育に力を注いでほしい」というお言葉にどこまで応えられたかはわかりません。まだまだ努力が足りなかったようにも感じます。

大学の使命は、専門知識を授けることにとどまらず、学生が出会いを通じて影響を受け、夢中になれる何かを見つける場を提供することにあると思います。これからも東洋学園大学が、学生にとって素晴らしい学びと出会いの場であり続けることを心から願っています。
最後に、これまで支えてくださった教職員の皆様、そして共に過ごした学生たちに深く感謝申し上げます。流山キャンパスでの時間は、私にとってかけがえのないものでした。また、本日このような機会をくださった同窓会の皆様にも、心より御礼申し上げます。東洋学園大学のさらなる発展を願い、私の講演を締めくくらせていただきます。ありがとうございました。