東洋学園大学 100周年

東洋女子短期大学から東洋学園大学へ

東洋女子短期大学 元学長東洋学園大学 元学長名誉教授 原田規梭子

明治大学大学院修士課程も修了間近のことでした。恩師橘先生の授業が終わり、先生のお話に触発されて、小石川植物園へ行こうと、お茶の水から、壱岐坂通りを通ってぶらぶら歩いておりました。右手の小さな大学の正面玄関から地味ともいえず、派手というのでもない、とても感じのいいお嬢さんたちが階段をおりてきました。その時、私の心に何かが響きました。
修士課程を終了し、いろいろな事情があり、博士課程へ行かないことを決めた私なのですが、研究し続ける環境だけは確保する覚悟を決めていました。そのためにはどこかの大学で、学生たちに教えながら研究を続けるのが一番だと思いました。本来、就職活動をしなければならないのですが、何をどうすればいいのか、皆目、分からない時に、ふと、先日のお嬢さんたちのことが、頭に浮かびました。その時、おつきあいしていた、現在の夫、大二郎さんに相談したら、「学長に手紙を書いてごらんよ。僕が履修した英語の教科書に英国でそんな経験をした男の話が出ていたよ」と言われ、思いもしなかったことですが、見ず知らずの学長あてに、履歴書を同封して手紙を出しました。

数週間後、会いたいとの返信がありました。これが東洋女子短期大学との長いお付き合いのはじめの第一歩でした。学長がどんな方なのかも、判らないまま面接に伺うと、そこにはとても穏やかな、にっこりした笑みを浮かべた女性の学長がいらっしゃいました。馬渡房先生(写真)です。先生は、「あなたみたいに、勝手に来る人は初めてよ」とおっしゃいました。指導教授からの依頼書もなく門戸をたたく人はいないようです。それでも先生は、私を当時の主任教授の星山三郎先生(写真)の助手に採用して下さいました。

助手の仕事をしながら、私は早く学生とかかわりたくて、うずうずしていました。学生たちは、まだまだ、自分たちの学びの先に広がる無限の可能性には気づいていないようでした。学びの意味を学生たちと共有したくて、もう一人の助手、高橋尚子さん(写真左)と一緒に、単位にはならない課外ゼミの設立を進言しました。当時は、東洋女子短期大学でした。「短大生にゼミなんて、いらん」という頑迷な反対意見もありましたが、学生の学びの意味にまっすぐ向き合うことを大事にしていらっしゃる先輩、日高佳先生がサポートしてくれました。

日高先生(写真右)は入学試験、学生部、教務部全般にわたって仕事をしておられ、まさに短大の活動の屋台骨のような中心人物でした。わたしたちは彼女の背中を見て仕事を覚えていきました。彼女のおかげで、高橋さんと私の二つのゼミが立ち上がり、応募する学生もいてくれて、すぐにゼミ活動が始まりました。ゼミ旅行に行き、活動の報告をフェニックス祭で発表したりしました。
予想以上に学生やお客さんが多く来場してくれ、その反響の大きさにびっくりしました。会場を訪れた東大の学生たちが、「短大生でここまでやれるんですねぇ」と言ってくれたり、ほかの短大生たちが、とても興味を持ってくれました。
このころ、私たちは学生と学びあうことがとても楽しく、本郷キャンパスで刺激的な毎日を送りました。そんなある日、英文講読を2コマ担当していた非常勤講師の方が病気になり、急遽、私がその穴を埋めることになり、流山キャンパスで「講読」を担当することになりました。初めての授業に緊張して大汗をかいていましたが、学生たちは、私の言うこと一言一言に反応してくれて、彼女たちの輝く瞳に出会えて、私は自分が良い職業を選んだ、と、とても嬉しかったのを覚えています。
さらに、演劇論担当の先生が退職されて、短大はそのコマの担当者を募集したので、ドラマに興味があった私はすぐに手を上げました。
私は修士論文がT.S. Eliotの詩劇ではありましたが、演劇の歴史とか、演劇とはということを体系的に勉強していたわけではないので、それからは、しっかりと演劇論の勉強をしました。「演劇の始まり」、「ギリシャ悲劇」、「英米の演劇」と研究を重ね、1年後には分厚い演劇論のノートが出来上がりました。まさに、人を教えるのは、自分を教育することに他なりません。
演劇論の講義は英文講読とは違った面白さと難しさがあり、夢中になりました。人々の心を動かし、感動させ、生き方すらにも影響を与える演劇の力が学生たちに浸透し、これまで控えめだった学生たちが自ら多くを語り始め、本を読んで涙し、小演劇をやって怒りを爆発させました。私は生涯の研究テーマ、演劇を深く極めるという命題と出会ったのです。

やがて、時が流れ、女子といえども四年制大学へと志向が移り、東洋女子短期大学はその使命を終わらせることになります。私は短期大学、最後の学長を務めることになりました。短期大学を閉校するにあたり、在学生一人一人と面談をし、彼女らの未来を展望するお手伝いをしました。学生たちにとって、自分たちの卒業する短期大学が消滅するということは大きな衝撃だったのです。卒業式では彼女らは涙ながらに校歌を歌いました。とても感動的でした。
一人の学生が病気で半年休学していました。閉校という現実の前に、彼女は他大学への転校などの選択肢はあったのですが、どうしても東洋女子短期大学を卒業したいという決心が堅かったのです。私は短期大学協会へ相談に行ったりしましたが、結局たった一人の卒業延期の学生のために短期大学を半年存続させることになりました。東洋女子短期大学にとっても大きな決断でした。短大所属の先生方は全員四大へ移行したので、彼女の卒業式は私と二人きりの寂しいものになると覚悟していましたが、当日、多くの先生方が彼女の卒業を祝って、式に参加してくださったときには涙が出ました。

短大を終了させた後、四年制の東洋学園大学の現代経営学部に移り、副学長の仕事を拝命しました。大学にとっても大きな変革の時期でした。学生たちのニーズに応えて、ほとんどの授業は、本郷キャンパスで行うことになりました。副学長就任以降、私は本学の現在、未来、学生に何が必要で、何が足りないのかなどを、一生懸命、考えました。
本学は短期大学から英語教育に力を注いできましたので、それを全学的により強化するために、英語教育開発センターを設置しました。さらに教養教育の徹底のために教養教育開発センターを新設しました。新しい組織つくりに副学長として尽力しました。学生たちが、できるだけ長くキャンパス内にいたいと思える環境作り、English Lounge や談話室の設置と、その活動の支援に力を注ぎました。学生たちは自ら、Loungeや談話室で学びあい、キャンパスが見事に学びのコミュニティーになりました。
自分が思い描いていた教育現場の姿が少しずつ現実になり始め、さらなる目標へと向かうことになりました。一ノ渡先生がご退任になり、私は学長を拝命することになりました。学長を引き受けたその日から、本学の設立の歴史を、もう一度詳しく調べました。

東洋女子短大の戦前、戦中の母体である東洋女子歯科医専の創立者宇田尚校長が本学の教育の理念として掲げた、「自彊不息」の精神を知るために『易経』を紐解きました。宇田先生は漢学者でしたから、こんな言葉を残しておられるのです。
私は先生のお言葉、「自ら進んで努力を重ね、決して怠らないこと」を、常に胸に秘めて学長職に励みました。
学生とは学びの可能性、その学びの無限なること、今、学ぶ意味を話し合いました。職員と教員には学生たちの学びの意欲にしっかり寄り添い、その成長を促す努力をしてもらいました。教職員の皆さんのその思いは、学生たちに自然と浸透し、学生と教員の距離がとても近い学園の雰囲気が出来上がりました。学長室は常に開放しました。職員はもちろん学生たちが要望や、不満、悩みを打ち明けに来ました。私は彼らの先輩として、彼らと一緒に笑ったり、泣いたり、怒ったりして、時間とその思いを共有しました。それはかけがえのない経験でした。
振り返ってみると、私がこのような教員生活を送れたのは素直な学生たちに恵まれたこと、私の背中を常に押してくれた馬渡先生、日高先生がたのおかげだと感謝しています。学生たちのことを語り合った同僚の先生方、いつも支えてくれた職員の皆さんたちとの楽しい思い出、意見の食い違いで声を荒げたこともありました。
いま私は落ち着いた日々を迎え、ゆっくりとあの頃のことを思い返しています。それは、かなり激しい闘いの日々だったように私には思えます。東洋学園大学は、これからも、大きな波を迎える日が来るかもしれません。東洋学園大学の皆さんの発展とご健勝を祈ってやみません。