東洋学園大学 100周年

INDEX

東洋学園大学(1)流山キャンパスの時代(1992年~2001年を中心に)

1 学園初めての大学設置申請

1.1 初めに 東洋学園の2つのキャンパス

この第4章から始まる3つの章は、1992(平成4)年の東洋学園大学開学から2026(令和8)年に100周年を迎えるまでの、東洋学園大学を中心とした東洋学園の通史である。
現在、東洋学園大学の学生が学び学生生活を送っている施設は、主として東京都文京区に位置する「本郷キャンパス」にある。ここは、都心でありながら10をこえる高等教育機関が集中して文教地区を形成しており、学園が創立して以来100年にわたってそれぞれの時代の波にもまれ、形を変えながら今日まで受け継がれてきた場所である。今日では5つの路線が利用できるという恵まれた都市型キャンパスとして、その立地自体も東洋学園大学の強みの一つとなっている。

また、運動場施設としては、東洋学園大学グラウンド(千葉県松戸市幸田字西ノ下116)がある。このグラウンドには、公式戦にも使用される野球場、テニス部の練習拠点となるハードコート3面に加えて、トレーニングルームやシャワールームを備えたクラブハウス等があり、本学の運動部活性化指定団体であるテニス部、硬式野球部に所属する学生がトレーニングに励んでいる。

松戸市北部にあるグラウンドの北側に沿って、校歌の歌詞にもある坂川が流れており、対岸は流山市となる。グラウンドから坂川を100メートルほど下った流山市側にレンガ色の校舎と約50,000m²の広大なキャンパスが広がっている。この場所が1992年4月の開学から26年間、東洋学園大学の学生が集い、学生生活を送り、沢山の思い出を共有するもう一つのキャンパス「流山キャンパス」だった場所である。

2024年3月21日(木)、この場所で南流山中学校校舎の竣工式が行われた。当日は本学園の愛知太郎理事長と流山市の井崎義治市長が出席し、流山キャンパスを東洋学園大学から流山市に引き継ぐための式典が開かれたのである。
近年人口の増加が著しい流山市は、現状の中学校の施設では生徒数の増加に対応できないため、本学の流山キャンパスにあった施設を一部改修し、中学校や市の施設として使用することを決定、その改修工事が完了したのである。東洋学園大学の流山キャンパスと校舎は2024年度からは、流山市の中学生たちが集う場所として新しいスタートを切った。
東洋学園大学では、2014年度から全ての学生が4年間一つのキャンパスで学ぶという「キャンパス統合」のプロジェクトを開始し、それが2017年度末で完了した。東洋学園が100周年を迎える2026年には、キャンパス統合が完了した時点から8年が経過しており、流山キャンパスの存在を知っている在学生は多くはないと思われるので、ここで、東洋学園大学の学生の所属校舎を年代順に整理しよう。

1992年の開学時から2005年に人文学部に入学した学生は、卒業までの4年間、流山キャンパスで学生生活を送っていた。2002年、本郷キャンパスに現代経営学部が開設され、その年から2005年までの間は、現代経営学部の入学生は本郷キャンパス、人文学部の入学生は流山キャンパスで、それぞれの所属キャンパスに別れて卒業までの4年間を過ごすこととなった。
2006年、学部別にキャンパスを分けることを廃止して、全学生が1~2年次を流山キャンパスで3~4年次を本郷キャンパスで学ぶ、いわゆる「キャンパス共用化」が始まった。この年から2013年迄の入学生は所属学部にかかわらず、流山キャンパスで入学して本郷キャンパスで卒業するようになった。
2014年度(人間科学部は2016年度)の入学生以降は、全学生が4年間本郷キャンパスで学生生活を送る「キャンパス統合」が行われた。2017年度に人間科学部の3年生と4年生がキャンパスを去ってからは、流山キャンパスの役割は部活動等に限られるようになった。
このように、東洋学園大学はキャンパスの使い方に時代による変遷があり、大きく分けて次の3つの時代に分けることができるだろう。この通史では、おおむね以下の3つの時代に別けてそれぞれの章とする。

第4章 流山キャンパスの時代(1992年~2001年)
第5章 2つのキャンパス・共用化の時代(2002年~2013年)
第6章 キャンパス統合から本郷キャンパスの時代(2014年~現在)

1.2 学園を取り巻く環境と学園の決断

1945(昭和20)年の第二次世界大戦終了に伴い、日本でも婚姻が増加し、それに続いて出生数も年間約250万人まで急増した。これが第一次ベビーブームと呼ばれ、1947年から1949年生まれの団塊世代の誕生である。ベビーブームは、その後の日本の高等教育にも少なからぬ影響を及ぼす。

(『18歳人口及び高等教育機関への入学者数・進学率等の推移』 文部科学統計要覧 2024年)

1966年(赤矢印1966)に、18歳人口が249万人という最大のピークを迎えた。これは、1948年に生まれた団塊世代が18歳を迎えた結果である。ただし、当時の進学率(赤の折れ線)は20%付近で推移しており、同年の高等教育機関への進学率は16%、大学への進学者数は29万人(12%)にとどまっていた。
第一次ベビーブームから約25年後の1971年から1974年、出生数が約200万人に達する第二次ベビーブームが訪れた。この世代を団塊世代の子供たちという意味で、団塊ジュニアと呼ぶこともある。同じグラフを見ると、第二次ベビーブームの18年後の1989年から1992年(赤矢印1989~赤矢印1992)に二つ目のピークがあるのがわかる。この二つ目の18歳人口のピークの値は205万人となっているが、進学率を示す赤い折れ線を見ると、1966年を境に進学率が急上昇(緑矢印)していることがわかる。団塊ジュニア世代は急激に進学率が上昇する中で成長し18歳を迎えたのである。
1992年(赤矢印1992)の進学者数は大学が54万人と1966年のほぼ2倍にまで増加していた。この時代の18歳人口と当時の高等教育機関への進学率等の推移は、大学という受け皿への社会的要請を高める力となり、それに応えるように大学の設置、学部の新増設等の動きが大きな波となっていた。1985年に行われた東洋女子短期大学本郷校舎4号館の竣工式には、流山市から市長が来場し「新校舎の次はぜひ、流山市に大学を設置することを期待する」と5年先を見越した祝辞を述べている。(『東洋学園八十年の歩み』 東洋学園大学 2007年)
一方、同じグラフはそれ以降18歳人口が下降傾向(黄矢印)に転じることも示していた。2024年作成のグラフを見て1990年度以降を振り返ると、2020年頃(紫色矢印1990~2020)まで18歳人口の減少と進学率の上昇が均衡して推移したことがわかる。しかし、これは結果論であり、1990年の時点でこれを予知することは難しく、決断は慎重になった。
東洋女子歯科医学専門学校、東洋女子短期大学等、形を変えながら歴史を守り続けてきた東洋学園にとって、四年制大学を設置することは長い間の願いでもあったが、馬渡房理事長は「四年制の実現は、まず東洋女子短期大学の教育をできるだけ充実し、理想的な域にまで引き上げ、はち切れるような余力を結集してから」という慎重な姿勢を堅持していた。(『学園四十年史』 東洋女子短期大学 1990年)
しかし、進学率の推移という不確定要素があったにせよ18歳人口のピークは目前で、人口に限ればそれ以降減少に転じることは明らかだった。学園を取り巻く環境の急速な変化を認識して決断する時は迫っていた。1989年4月、学園は1992年の新設大学設置申請を決断し、大学設置準備室を開設した。そして、馬渡房理事長は宇田正長常任理事に新設大学設置申請の指揮を託した。

1.3 設置申請手続

東洋学園大学誕生について書く前に、大学を設置するときの認可申請の手続きの流れを簡単に整理しよう。
東洋学園大学を新設するためには、私立大学を設置する申請者(学校法人東洋学園)が、大学設置・学校法人審議会に諮問し、文部大臣(現在の文部科学大臣)の認可を受ける必要がある。大学設置・学校法人審議会には「大学設置分科会」と「学校法人分科会」という二つの分科会があり、それぞれが大学設置の計画が適正であるかどうかを審査する。分科会が二つに分かれているのは、大学設置分科会は教育研究・施設、学校法人分科会は財産・管理運営体制という二つの観点で審査を行うためである。それは「大学の質」を保証し、ひいては「学生の利益」を守る制度と言える。
審査の窓口は文部省(現在の文部科学省)の高等教育局にあり、大学設置分科会の窓口となるのが「企画課大学設置室」(略して企画課)、学校法人分科会の窓口となるのが「行政課法人係」(略して行政課)である。以上の概略を表にまとめると以下のようになる。

学園は、開設の前々年度に「構想審査」のための書類(「設置認可申請書」と「寄付行為(変更)認可申請書」)を、企画課と行政課に提出する。審議会は提出された申請書に書かれた学園の構想を審査し、その結果は再び窓口を通して学園に伝えられる。学園側は審査結果に基づいて申請書類に必要な補正を加えながら窓口との相談を重ね、開設予定の前年度に「補正申請書」提出、実地審査を受ける。そのようなやり取りを経た後に判定・答申が出されて文部大臣による「設置認可」に至る。
このように、申請のための相談時に企画課と行政課は学園側から見ると審議会の視点で厳しい指摘をする存在である。一方、相談を経て受理した書類について、企画課と行政課は審議会に対しては学園の立場で構想を説明する役割も持っている。

1.4 設置が認可されるまで

大学設置準備室が立ち上がると宇田理事は、人材、校地、校舎、資産等当時学園が持つリソースを踏まえて、1992年4月、流山キャンパスに人文系1学部2学科の四年制大学を開設する構想を立て、文部省への事前相談を開始した。

宇田正長(1937~2003)
設置申請時は学校法人東洋学園の常任理事、東洋女子短期大学の副学長を兼ねる。1964年に慶應義塾大学医学部を卒業、1967年より東洋学園の評議員を務めながら外科医として東京専売病院に勤務。理事長馬渡房の長男。祖父は創立者宇田尚。

事前相談で乗り越えなければならなかった初期の課題の一つは、大学新設に必要な財源の確保だった。設置申請の書類の一つとして「経費及び維持方法を記載した書類」がある。当然のことだが、大学の設置計画が財政的に破綻するようなものでは申請は成立しない。また、他校に所属する学生が納めた学納金を財源にして、新設大学のために使用することは認められない。これを本学園に当てはめれば、東洋女子短期大学の学生が納めた学納金、入学金等を東洋学園大学の開設のために使用することはできないということである。
東洋学園大学が開設してから4年後の完成まで維持運営するための財源は、大学の入学生の学納金や検定料で計画を立てることができる。しかし、受験生すらいない申請前の大学がその施設設備を整備するためには、大学開設を目的として使用できる財源(事業収入や寄付金収入等)が必要である。東洋学園の場合、事前にそのような財源を確保する準備が充分になされているとは言えなかった。大学開学前からの財源を基に試算して「経費及び維持方法を記載した書類」に反映し、完成年度までに黒字となる書類を作成することが必要だったのだが、それが難しかった。止むを得ず開設時に予定していた体育館の建設計画を大学完成後の1996年以降まで延期することさえ検討された。
対策に苦慮する中、「学校法人会計では、企業会計とは異なり、固定資産の耐用年数は学校法人がその使用状況を考慮して自主的に決めることが求められている。また、減価償却額も学校法人が合理的で妥当と判断する範囲で設定できるようになっている。しかし、この書類では、減価償却額が『学校法人の減価償却に関する監査上の取扱い』で示された耐用年数の目安の額がそのまま設定されてしまっている」と指摘したのは行政課の相談担当者だった。
減価償却とは、建築物や設備など高額の費用を一度にまとめて計上するのではなく、耐用年数で分割する会計処理である。担当者が述べている「固定資産の耐用年数は学校法人が・・・自主的に決めることが求められている」の意味は、「耐用年数を長期に設定すれば、毎年計上する金額を低く抑えることができる」と理解することができる。
本学としては、申請業務に係る学校法人会計のルールの理解不足を厳しく指摘されたということになるが、この指摘によって新しい体育館も含めた東洋学園大学の設置計画が、財源の面でも実現可能という目途がたち、東洋学園大学設置申請の手続きをスタートできるようになった。

第1号議案
四年制大学の設立について議長より、次の主旨説明があった。
本学は、終戦後学制改革により東洋女子歯科医学専門学校を廃止し、東洋女子短期大学を開設した。当初は英語英文科の単科短大で、昭和57年に千葉県流山市に欧米文化学科を増設し、今日に至っている。短期大学の40年は国際的視野をもつ子女の教育に努めてきたが、近年の我が国経済の国際化、情報化社会の進展はまことに急テンポのものであり、国際社会に通用する人材の養成が急務となっている。このような時代の要請に応じて、新しく男女共学の四年制大学の開設にむかって研究を進め、理事会に諮り計画を立案して行政当局との事前ヒアリングを行ってきた。ほぼ、その内容が固まったので審議決定をお願いしたい。
なお、原案の概要は次の通りである。

設置する大学の名称 東洋学園大学
設置する学部・学科 欧米文化学部 言語文化学科 地域研究学科
場所 千葉県流山市鰭ヶ崎1660 本学流山校舎
開設年月 平成4年4月
入学定員 220名

・・・以下略・・・

(『理事会決議録』 学校法人東洋学園 1990年)

その構想を申請書の形にする作業が始まった。主として「設置分科会」に関係する教育課程の編成は、宍戸寿雄と木内信敬の二人が担当した。新設大学の教育課程を構成する授業は外部から招致する教員と、東洋女子短期大学に在籍中の教員が大学に転籍して担当するため、宇田理事は事前相談と並行してほぼ全ての専任教員から、本人の業績、新設大学に移籍する希望等の聴き取りを行って、授業科目と担当者の一覧表を作成した。

宍戸寿雄(1921~1999)
1942年東京帝国大学工学部航空学科を卒業し海軍で航空機の研究に従事したが、戦後は経済学者に転向。1960年代には経済企画庁で経済白書を手掛けた。以後、日興リサーチセンター理事長、国際大学副学長を歴任後、1987年から東洋女子短期大学教授を務めていた。1950年に東洋女子短期大学が開設された当時には「数学」の授業を担当しており、東洋学園とのかかわりが長い。

木内信敬(1917~1997)
1940年東京帝国大学英文科を卒業後1981年で定年を迎えるまで千葉大学に在任。千葉大学から退く前の1977年から非常勤として東洋女子短期大学の新学科(欧米文化学科)の設置計画推進で大きく貢献した。学園内での信頼が厚く、1991年には東洋女子短期大学学長に就任した。

この時の計画で新設の東洋学園大学に採用する教員数の内訳はおおむね下表の通りとなり、文部省の企画課での事前相談は、さらに何度か繰り返され修正が重ねられた。

(『東洋学園大学(英米文化学部)設置認可申請書』 学校法人東洋学園 1990)

企画課での事前相談で問題となったことの一つは、東洋女子短期大学の実績を踏まえて本学が予定していた「欧米文化学部」という学部の名称だった。当時は「〇〇文化学部」という名称で申請を行うと学際分野の基準で審査を受けることになり、複数学部を持つ総合大学並みの教育研究環境整備(多くの教員数、蔵書数など)が求められたのである。そのため、単一学部の新設大学を目指す本学にとって「欧米文化学部」という名称は極めてハードルが高かったのである。行方昭夫は学部長予定者としてこの時の事前相談に同席しており、これをきっかけに東洋学園大学の「人文学部」としての教育課程の見直しから、各々の科目とその担当者及び業績の検討に至るまでかかわるようになった。
同席した時の事前相談の様子については、行方第2代学長のコラム「開学当時の思い出」に描写されているので参照されたい。

行方昭夫(1931~)
1958年東京大学大学院人文科学研究科英文学修士課程を終了後、1992年で定年を迎えるまで東京大学に在任。アメリカ文学者として数々の翻訳書を生み出している。大学の先輩でもあった木内信敬の呼びかけを受けて、学部長候補者として東洋学園大学の開設メンバーに加わった。1998年には東洋学園大学の学長に就任した。

学際的な学部名称は、現在では大学の規模に関係なく使用されるようになっているが、これは本学が開学した10年後に中央教育審議会から次の答申が出された後のことである。
「大学が学問の進展や社会の変化・ニーズに対応して積極的に改革できるよう、設置認可制度を柔軟にするべきだ」
(『大学の質の保証に係る新たなシステムの構築について(答申)』 中央教育審議会 2002)
財産・管理運営については、法人本部が中心となって廣澤李任法人本部事務局長と何川敏郎事務局長が指揮をとり、文部省の事前相談を進めた。「行政課」での事前相談で問題とされたのは、相談の書類に含まれていた「学則」の案の以下の部分だった。
「第46条 本学は、課外講座、公開講座又は講習会を開催することがある」
当時の課外講座は、在学生のみを対象とした「英会話」「英文タイプ」の課外授業を指しており、運営は専門学校「東洋文化学院」が担当していた。それに対する行政課での指摘を要約すると「英語教育に力を入れている学園が設置する大学でありながら、在学生に有料で他の専門学校の授業を受けさせるのか?」ということだった。何等かの補正、対応をしなければ、事前相談を継続して申請業務を進めることはできないため理事会が招集され、そこで東洋文化学院の廃止が諮られることとなった。
理事会の場では、①『東洋文化学院』は『オリエンタル英学院』として東洋女子短期大学とほぼ同時に開校して以来約40年にわたって学園を支え続けたこと、②学内でダブルスクールの受講ができると在学生から好評であること、③専門学校にも短期大学と同様の将来性があることなどを踏まえて、大学を設置申請するという目的で専門学校を廃止して良いのか?という慎重な意見も出された。しかし、当時東洋文化学院の学院長だった黒澤嘉幸理事が受講者には不利益が生じないよう対応をするという条件で了承することによって、「東洋文化学院」を廃止する「寄付行為」の変更が承認され、「設置認可申請書」と「寄付行為(変更)認可申請書」の「補正申請書」の提出が実現した。
1991年12月20日(金)、学校法人東洋学園に以下の内容で大学設置認可の通知が届いた。

【大学の概要】
大学の名称 東洋学園大学
学部・学科名 人文学部 英米言語学科 英米地域研究学科
開設 1992年4月1日
設置 学校法人 東洋学園
【管理運営組織】
理事長 馬渡 房
学長 宍戸 寿雄
副学長 宇田 正長
学部長 行方 昭夫
学科主任 英米言語学科 高倉 忠博
英米地域研究学科 宮地 治
【学生定員】
学科名 入学定員 総定員
英米言語学科 110名 440名
英米地域研究学科 110名 440名
合計 220名 880名
【教員数(開設時)】
区分教授助教授講師合計
一般教育科目等7名3名1名11名
英米言語学科3名3名6名
英米地域研究学科2名2名4名
合計12名8名1名21名

(『設置認可申請書』 学校法人東洋学園 1991年)

※馬渡房は1992年5月31日に理事長を退任、宇田正長が継ぐ。

2 東洋学園大学開学

2.1 開学に向けて

1991年夏、「補正申請書」の提出後から設置認可の通知が届くまでの間、流山キャンパス1号館1階に大学準備室が設けられた。そこでは、宮地治(英米地域研究学科学科主任就任予定)と事務職員3人が、実地調査への対応や募集広報、入学試験、そして新入生受け入れ準備などの取り組みを開始した。

実地審査を無事に終え大学準備室にて
左から、行方学部長(予定)、何川事務局長、宇田理事、宍戸学長(予定)、職員2名、宮地学科主任(予定)、馬渡理事長

新設大学は、設置認可前の学生募集は禁じられており、東洋学園大学の広報活動には「設置認可申請中」であることを明示しなければならず、入学試験要項や出願用書類の発送も認可が下りるまで禁止されていた。しかし、開学を約半年先に控えて、パンフレットの作製や出願書類の整備等を前倒しで進めることは必要不可欠だった。
1992年の1月には願書受付が開始された。募集広報活動に充分な時間がなかったにもかかわらず、郵送による願書受付が始まると郵便配達用のカゴに詰められた願書が100通単位で配達された。最終的に初年度は、公募制推薦入試に589名、一般入試に2,562名、合計3,151名が出願した。
出願者の選考では、東洋女子短期大学で行われてきた英語と国語の一般入学試験(前期・後期)に加えて、公募制推薦入学試験も採用した。また、推薦入試では面接に加えマークシート方式による英語の基礎学力テストも実施された。限られた人数のスタッフによる選抜を遂行するため、入試業務に於いても宇田理事が推進したOA機器利用は必須の条件だった。
開学後の1年間の学事日程、事務諸手続、履修要項、講義要項、学生生活案内、課外活動規定等々学生生活にかかわることは、敷地を共有する東洋女子短期大学の在学生を配慮するため、短期大学から大学に転籍する予定だった教員が授業終了後に大学準備室に集まって協議打合せを重ねて練り上げた。開設初年度の「学生便覧」に書かれた内容は、履修要項や講義要項等は設置認可申請書を基にしたが、その他の事項はこの時の打合せの結果を踏まえて一冊にまとめられている。
開学直前の大学準備室の業務は、学生募集のパンフレット作製、願書受付、入学試験等の運営、開学後の学生活動のルール作りから学生便覧の編集まで多岐にわたったが、宮地はそのすべてで中心的な役割を果たした。

宮地治(1936~2007)
1962年東京大学経済学部を卒業後、経済企画庁に入庁、以後環境庁、国民生活センター、(財)家計経済研究所を経た後、宍戸寿雄初代学長の紹介で東洋学園大学開設時の教授メンバーとして開学前年の1991年から大学準備室に着任し、開設時には英米地域研究学科の学科主任となった。

Ⅰ 東洋学園大学の理念

学長 宍戸 寿雄

世界は日本を呼んでいる。21世紀を目の前にして、世界が大きく変わろうとしている中で、日本に対する期待が高まってきている。だが、このような潮流にもかかわらず、日本人の国際的感覚の乏しさ、国際的に通用する人材の不足が痛感される。国際社会で有用な日本人の養成がいそがれねばならない。
東洋学園大学創立の目的は、日本人として教養があり、かつ外国文化を理解し、国際社会において日本文化の特質をよりよく外国人に伝達することのできる若者を世に送り出すことにある。
そのため第一に、語学を中心とする従来の教育と研究が外国文化の吸収に重点を置いた「受信型」であったのに対し、日本文化の特質を外国人に外国語によって伝えることのできる「発信型」の学習・研究でなければならない。
第二に、現在ビジネス・ランゲージとして世界共通語となっている英語に語学教育の重点を置きながら、言語はその国の文化を体現しており、言語自体が文化を伝えるものであるという認識の下に、地域研究という総合的な手法を活用しつつ、英米文化に関する理解を深める学習・研究でなければならない。
第三には、国際的に通用する日本人として、日本の文化、政治、経済などについて十分な教養を身につける学習・研究でなければならない。たとえ外国語を巧みにあやつるバイリンガルになったとしても、語るべき内容をつちかう能力を欠くならば、単なる通訳としても通用しないからである。
本学は、さらに、留学生や帰国学生を受け入れ、教育の場において「内なる国際化」の実現を図りながら、国際人養成の成果を高めることにしたい。
21世紀の世界でリーダーシップを発揮するために日本が求める有能な若者を育成するという本学創立の主旨を強く自覚し、「象牙の塔」にこもる愚を避け、開かれた課題に取り組みながら、教職員と学生が共に未来に向かって勉学することを本学の理想としたい。

(学生便覧『東洋学園大学の理念』 東洋学園大学 1992年)

2.2 初めての入学式~授業開始

1992年4月9日(木)、東洋学園大学の第1回入学式が流山キャンパスの第2体育館で行われた。初年度の新入学生数は入学定員の約1.3倍にあたる279名で、英米言語学科が136名、英米地域研究学科143名だった。
入学式から授業開始までの行事は以下のようなスケジュールで進められた。

4月9日(木)

【入学式】(於 第二体育館)
8:50~ 新入生入場(第2体育館入口でクラス別名簿を受け取り、最前列より順に着席)
父母入場(新入生席の後ろの父母席に前列より着席)
9:25~ 教員入口ロビーに集合して一斉に入場して、壇上に着席。
9:30 1.開式の辞
2.国歌演奏

3.学長式辞 宍戸学長

4.理事長祝辞 馬渡理事長

5.学園及び教員紹介 宇田副学長
6.宣誓 新入生代表

7.閉式の辞
10:10 8.記念講演
入学式が終了した後、10分の休憩があり、同じ場所で愛知和男衆議院議員(前環境庁長官)の記念講演が行われた。

【クラスミーティング】(於 6号館2~3階教室)
11:00~12:00 1クラス45名~48名の6クラス(英米言語学科がA~C組、英米地域研究学科がD~F組)に分かれ、担任の自己紹介、クラス連絡委員の選出、大学からの配布書類の説明、記念写真撮影等が行われた。

4月10日(金)

【オリエンテーション】(於 第二体育館)
10:00~11:40
1.訓辞 行方学部長
2.履修指導(1) 長谷川教務部長
3.履修指導(2) 田中助教授
4.学生生活指導(1) 遊佐学生部長
5.学生生活指導(2) 吉武学生相談室長
6.図書館案内 長井図書館長
7.課外授業等 課外講座室
8.施設・食堂他 何川事務局長
【教科書販売】(於 3号館3102教室)
11:40~12:00 第二体育館出口で教科書代等を徴収後、3号館で教科書が渡された。

4月11日(土)

【事務諸手続】(於 5号館 事務室)
11:40~12:00 5号館1階の学生部カウンターで学生証の発行、在学証明書等の申込受付等を行った。

そして、4月13日(月)から授業が開始された。下の時間割は初年度後期の授業時間割である。当時の学事日程は4月~9月15日までの前期(春学期)と9月16日~3月までの後期(秋学期)の2学期制で、科目名の後に「(後期)」と書かれている授業を除いては通年で開講されていた。

2.3 大学の事務組織体制

下は、大学開設当初の組織図である。

(学生便覧『1 組織』 東洋学園大学 1992年)

大学の新入生が事務手続きをする教務部、学生部、事務部の窓口は5号館の1階にあった。何川敏郎事務局長の下に各部署の職員が配置されていた。職員数の内訳は下表の通りで、1992年度の職員数は13名、1995年度には19名に増加している。

開設年度の大学の新入生の数は279名で、新入生の数がその年の在学生数となった。新設大学は初年度生が卒業するまでの4年間は卒業生がいない。すなわち、毎年ほぼ新入生の人数分だけ在学生数が増加することになる。1993年度は249名、1994年度は266名、1995年度は251名が入学したため、1995年度の在学生数は1,000名を超えた。学校の仕事量は在学生数に影響される部分が少なくない。

限られた職員で、増大する仕事量に対応するためにも、事務業務の効率化が急務となった。その手段の一つとして宇田理事長が推進したのがOA機器の積極的導入だった。
1993年度からは、学生証の発行が手作業からデータベースを利用した印刷に変更された。また、1994年度からは科目登録も手書きからマークシート方式に変わり、機械読み取りによる履修者名簿作成が行われるようになった。しかし、1995年5月の教授会では「機械処理で登録作業を行ったが、記入ミスが多かったため、担当者に履修者名簿を渡すのが遅れた。」と報告された記録がある。また、この年は初年度の入学生が4年生(卒業年次)を迎えているが、「登録後のチェックで卒業要件を満たしていない学生が3名見つかっている」という記録も残っている。チェック作業は登録後に職員の手作業で個々になされていたのである。このように、事務業務の効率化は進められていたが、全学的なOAシステムの導入まではさらに時間を要する状況だった。

3 開学後の動き

3.1 課外自治活動の始まり

課外活動は大学の学生生活の重要な要素である。開学時、東洋学園大学には当初から用意された既成のクラブ等の学生団体はなかった。しかし、初年度の学生便覧には、課外活動のことについて以下のことが記載されていた。

課外自治活動に関する規定

  1. 本学学生の課外の団体活動は、教育の一環として本学の指導の下におかれる。
  2. 学生団体は、本学専任教員を部長とし、その指導監督を受けなければならない。
  3. 学内にある学生団体は、毎年度の初めに、所定の用紙により活動状況、学生責任者、構成員氏名、収支状況、その他所要の事項を学生部に届け出なければならない。
  4. 新しく学生団体(同好会)を組織し、活動しようとする場合には、その責任者が所定の用紙を学生部に提出し、学長の許可を得なければならない。学長の許可を得ていない学生の団体は、本学の学生団体とは認めない。
  5. 学生団体の経費は、原則として構成員の拠出金によってまかなうものとする。なお、本学が適当と認めた場合には補助金を交付することがある。

・・・以下略・・・

1期生は学生便覧に書かれたこの規定を読んで、同好の仲間を集め代表者を決めて学生部の窓口を訪れ、学生部は5月13日(水)には希望者を集めて設立に関する手続き等の説明会を開催した。初年度の学生が同好会を結成する場合には5名以上の発起人が集まり代表者を立てて、専任の教員に部長を依頼して「学生団体新設願」を学生部に提出し、学長の許可を申請した。東洋学園大学の学生団体の結成はこのようにして自主的に始まっていった。5月の教授会では17の同好会の発足が報告され、7月の教授会ではさらに3同好会が追加された。その結果、前期中に発足した同好会は以下の20団体となった。

課外自治活動はクラブ、同好会等だけでは成立しない。学生団体の新設と並行して全体をまとめる組織の準備も行われていた。1期生の有志が集まり、休みの日にファミリーレストランに集まる等して遅くまで意見を戦わせて練り上げた「組織図」や「東洋学園大学学生会会則」は、1992年9月29日(火)開催した学生総会で、開学の4月1日に遡って承認された。承認された組織図と、学生会会則(一部)は下の通りだった。
会則が発効すれば、会則にある事業や、諸団体への補助金分配等、活動資金が必要となる。初年度は、後期の授業料とあわせて学生会費として1人7,000円を徴収するよう学園の事務局に依頼した。

東洋学園大学学生会会則

〔名称、所在地〕
第1条 本会は東洋学園大学学生会と称し、本部を東洋学園大学内におく。
〔目的、事業〕
第2条
  1. 本会は本学の学則及び規定に則り、学生個人の人格の陶冶、学生相互の親睦をはかり、学生活動を円滑に運営し、学生生活をいっそう有意義ならしめることを目的とする。
  2. 本会は前項の目的を達成するため、次の事業を行う。
    1. 各委員会活動およびクラブ活動を育成発展させる。
    2. 年1回学園祭を行う。
    3. 年1回体育祭を行う。
    4. 毎年4月に新入生歓迎会を行う。
    5. その他、学生生活に必要な諸行事を行う。
・・・略・・・
〔クラブ活動〕
第12条
  1. 各部および同好会は、それぞれ専任教員である部長の下に学内外における諸活動を行うことをもって学生生活を豊かにする場である。
  2. すべての学生は自己の好む部、又は同好会を選んでこれに所属することができる。
  3. 学外にコーチを委嘱する場合または他校と交流する場合には学生部長に届け出た後、その承認を受けなければならない。
  4. 各部には学生会費から活動の状況に応じて、活動費の補助が割当てられる。
  5. 各部、同好会は活動報告を学生会本部を通じて学生課に提出しなければならない。
    各部、同好会は3月と9月末日までに学生会本部に会計報告をしなければならない。
    学生会本部会計監査は、毎年4月と10月の2回備品検査を行う。
  6. 新たに同好会を結成する場合には、5名以上の発起人を必要とし、その代表者が学生団体新設願を学生会本部を通じ学生課に提出し、学生部長、学長の承認を得なければならない。
  7. 同好会が部に昇格する場合には、請願書を学生会本部を通じて学生課に提出し、下記の昇格条件を満たした後、学長の許可を得なければならない。
  8. 〈昇格条件〉
    1. 原則として部員数10名以上で同好会として1年以上活動している場合
    2. 原則として活動状況を詳細に報告し、これを学生会本部及びクラブ代表者会で検討した結果適当と認められた場合
・・・以下略・・・

学生が団体を結成するには、まず10名以上のメンバーで同好会を立ち上げ、1年以上活動を続ける必要がある。その上で活動報告を提出し、部昇格の請願を行えば、これを学生会本部とクラブ代表者会が審査し、承認されると部に昇格することとなる。このように、学生会の成立によって、同好会の結成手続きは学生会則に明文化され、その会則は翌年(1993年)の学生便覧に掲載された。

3.2 学生イベント

学生会会則には、会の目的(学生個人の人格の陶冶、学生相互の親睦)を達成するための事業として、学園祭、体育祭、新入生歓迎会等学生会が開催するイベントの名前を挙げていた。
体育祭実行委員会は早速10月23日(金)に第1体育館も使用して、第1回の体育祭を開催した。行われた種目は、卓球、ソフトボール、バレーボール、バスケットボール、綱引き等、ほとんどの競技がクラス対抗の形で行われ、学生同士の連帯感を一層高める催しだった。学生同士だけではなく、当日最後の種目となった綱引きには、行方学部長をはじめ多くの教員、さまざまな立場の職員までもが加わって、互い距離を縮める楽しい催しとなった。この第1回の体育祭には約240名(86%)が参加した。

10月末に体育祭を開催した。学生会会則には「学園祭」の開催も明記されていたが、学園祭を準備する実行委員会は十分な準備ができていなかった。そのため、学生部長であり学生会の顧問でもある遊佐礼子教授の助言を受け、初年度の学園祭は見送ることになった。代わりに、スポーツ委員会のメンバーが中心となり、12月12日(土)に大学周辺を巡るウォークラリーを企画。チェックポイントを設置したイベントには6チーム、45名が参加し、初めて自分たちで企画したイベントを実現させた。そして、学園祭実行委員会はスポーツ委員会に数ヵ月遅れて動き出し、翌年の学園祭に向けて準備を開始。年明けの2月13日(土)から15日(月)にかけて、メンバー25名が参加して流山青年の家で合宿を行った。
初めての学園祭は「輝くのは誰だ!」をキャッチフレーズに、10月23日(土)と24日(日)の2日間にわたって開催された。ステージ演奏や劇の発表、ミス・ミスター・コンテスト、展示発表、模擬店などが賑やかに行われた。
また、学園祭を準備する過程で、「東洋学園大学が新しい大学であることを地域に広く知ってもらう」というコンセプトも生まれた。大学周辺は住宅地が多く、子どもたちも多く住んでいることから、小学生が夏休みに作った作品を展示する「小学生の作品展」という企画が立案された。南流山、鰭ヶ崎、八木南小学校から作品を借りて展示し、キャンパス内のスタンプラリーも子供たちを含む地域住民に喜ばれた。2日間で約500人が来場し、地域との交流を深める良い機会となった。
学園祭を「鰭鰭祭(ひれひれまつり)」と呼ぶようになったのは1995年11月28日(土)、29日(日)に行われた第3回の学園祭からで、入場者は2日合計1493名と大幅に増えた。外部の来場者が増えただけでなく、一般学生が数多く参加したと記録されている。この年のキャッチフレーズは「"ひれがさき"って漢字で書けますか?」だった。大学が一丸となって鰭ヶ崎という場所に東洋学園大学があることを伝えたいという思いが込められていた。この思いは30年後の今日、「郷郷祭」という名前にも受け継がれている。

各クラブや同好会もそれぞれ活動を開始している。1994年4月には男子バレー部が関東バレーボールリーグに加盟し、本学体育館を会場に試合を行った。
また、1995年にはクラブ代表者委員が発起人となり、江戸川大学の学生と交渉を行い、2大学間での対抗戦を計画した。この対抗戦は「二大学運動競技大会」として実現し、同年12月16日(土)に流山総合運動公園の施設を利用して開催された。大会ではバスケットボール、バドミントン、バレーボール、剣道、野球、テニス、サッカー、ラグビーの8種目・11競技が行われ、本学は2勝9敗という結果だったという記録が残っている。その後、この大会は両大学間で継続され、2005年には日本橋学館大学が加わり、「三大学運動競技大会」として発展した。

3.3 学章(シンボルマーク)

東洋学園大学のシンボルマーク(当時は「学章」と呼んでいた)は、開学して間もない1992年前期に検討が始まった。当時は入学時に「バッジ」を配布する学校が少なくなかったこと、そして、学生・教職員の帰属意識を高め、大学の特色を対外的にアピールする必要があったことが、学章検討開始の理由だった。7月の教授会で学章についての懇談が行われ、夏休み前にデザイン案を募集することになった。夏休み明けには学生を中心に、短期大学の職員も含めて30以上応募があった。

応募作品には「TGU」の文字や地球、鳥の翼を図案化したデザイン、東洋女子短期大学の校章のデザインを基にしたもの、マスコットキャラクターの提案も含まれていた。これらの応募作品と「東洋学園大学の理念」を基に、広告代理店にデザインが依頼され、10月に案として提出されたのが、左の「TGU」を図案化した学章だった。 このデザインのバッジは翌年明けに完成して、1993年度の新学期に新入生と新2年生に配布された。

また、学章と共通のデザインを基にした「TGU」のロゴマークと「東洋学園大学」のロゴタイプも発表され、それぞれ学生便覧、封筒、パンフレットなどに使用された。

「TGU」のロゴマークについて、デザイナーは、「”TOYO GAKUEN UNIVERSITY”の頭文字を組み合わせて構成した。中央のGの字はGlobal(世界的・全地球的)を象徴し、赤いワンポイントカラーを付けることによって、名称が「T」の頭文字で始まる他の大学との差別化を図ると共に「発信型人材育成」を表現している。文字の部分には地球の青をイメージしたブルー・アングレー(Bleu Anglasis)を使用し、これをスクールカラーとした」と説明していた。後に、この青色を使用した旗も作られた。
同窓会サイトで、杤尾健同窓会長が宍戸寿雄初代学長の言葉を引用している。
「大学は地球であり、卒業生はいわば大学が打ち上げた人工衛星である。学生諸君は、社会に向けて発信できる人間となれ」
大学では航空学科に学び、航空機の研究者の経歴を持つ学長らしい夢のある言葉である。宍戸初代学長のことばを胸にきざみながら、改めてTGUのマークを見ると、赤い点が青い地球の周りを廻る人工衛星のようにも見えてくる。

3.4 校歌の誕生~卒業式

東洋学園大学が完成年度間近となった1995年3月の教授会で、宍戸学長が「来年度の卒業式に向けて、初年度卒業生が卒業するまでに校歌を作るべきではないか。詞を公募し、委員が選考したうえで専門家に作曲を依頼するのが良いだろう」と提案した。その後、宍戸学長は病気療養のため7月まで職務を離れ、その間代わって宇田副学長(理事長)が教授会の議長を務めた。5月の教授会では宇田副学長が「校歌作成に向けて、遊佐教授、池谷教授、水野教授、谷本教授を委員として委嘱する」と発言し、校歌作成に向けて具体的な準備が進められるようになった。
校歌がほしいという声は教職員だけでなく学生の間にも広がっており、歌詞の募集には学園祭運営局が広報誌「さくらんぼ」で告知するなどの協力もあった。なお、「東洋学園大学学生有志」の名前による歌詞の作成過程については、当時校歌作成委員だった水野節子教授がコラム「未来の記憶―東洋学園大学の校歌ができ上がりました―」で、当時の空気と共に生き生きと描いている。
歌詞案が報告されたのは11月の教授会だった。卒業式が迫る中、宍戸学長は「卒業式で皆が歌えるように」と要望している。翌週、洗足学園で教鞭を執る作曲家、篠原真氏が流山キャンパスを訪れた。篠原氏は宇田副学長から校歌の作曲の依頼を受け、作曲に先立って歌詞を受け取るだけでなく、東洋学園大学の雰囲気を直接感じ取りたいと来校したのである。歌詞を一読した後で、しばらく時間をかけてキャンパス内を見学した篠原氏は「広々として自然に恵まれたキャンパスと感じた。歌詞は歴史を感じさせる言葉遣いの中にアルファベット等新しい要素が融合している。できる限り原詞を生かして作曲をしたい」と語った。
1996年1月10日(水)の教授会では校歌作成委員会から「篠原氏作曲による校歌が今週末に完成予定。本学では歌詞の改変を認めているが、篠原氏は完成した作品を本学に提供した後は、自由に扱って構わないとの意向を示している。1月31日(水)に校歌発表会を開催する」と報告された。
その後間もなく、校歌を録音したカセットテープと楽譜が大学に届いた。歌詞は一字一句変更されることなく校歌に反映されていた。宍戸学長の発言から10ヵ月を要して、作詞「東洋学園大学学生有志」の校歌が発表されることになった。

発表会当日、学生や教職員が6102教室に集まり、歌唱の練習を行った。指導は、作曲者の篠原真氏が再び来校して担当した。また、発表会には宍戸学長も出席し、歌詞募集に応募した学生の中から優秀作品の作者を表彰した。

こうして、第1回の卒業式で皆が歌うことができる「東洋学園大学校歌」が誕生した。
2月26日(月)、ティアラこうとう(江東公会堂)の小ホールを使用して校歌の録音が行われた。ピアノ伴奏は篠原真氏が担当し、女声4名、男声3名の混声合唱で録音された。

第1回卒業式は3月20日(水)10時から第2体育館で、以下のスケジュールに従って行われた。

卒業式 開式の辞
国歌演奏
学事報告 行方学部長
学位記授与
学長式辞 宍戸学長
来賓祝辞 愛知和男
記念品贈呈 卒業生から大学へ
在校生送辞
卒業生答辞
校歌斉唱
学長とのお別れ (卒業生全員が学長と握手)
閉式の辞
同窓会発会式
集合写真
クラス別行事

作曲者の篠原真は卒業式当日も来校して、校歌斉唱の時にピアノ伴奏を行った。
2月26日(月)に録音された校歌は、制作期間の都合でレーベルには曲名等は記載されず、プラスチックケース入りの簡素な形となったが、CDとして卒業生に記念品として配布された。

4 流山キャンパスの変遷と開学後の施設の拡充

4.1 開学前の流山の校地と校舎

下の写真は本学園が校地にする前(1961年頃)の流山市鰭ヶ崎周辺の航空写真である。画面中央右寄りを縦に坂川が流れ、画面左下隅(鰭ヶ崎駅周辺)には民家のようなものも確認できるが、ほとんどの部分を水田が占めている。

(『地図・空中写真閲覧サービス』 国土地理院をカラー化)

2枚目の航空写真は同じ場所の1974年の写真である。水田だったところに住宅が建ち始めた。画面中央右寄りの坂川沿いに東洋女子短期大学の流山校舎が確認できる。1967年に竣工した白い屋根の建物(体育館)とグレーの屋根の建物(講義棟)、グラウンドあわせて流山校舎と呼んでいた。

(『地図・空中写真閲覧サービス』 国土地理院)

以下は、1967年に流山の校地に最初の施設が竣工してから1998年までに建設された施設の一覧である。名称や用途、面積等は、届け出の時期によって変化しているが、おおむね過去の届け出書類等に基づいた。

3枚目の航空写真は1979年に東洋女子短期大学の1・2号館は竣工したばかりの頃に撮影されたものである。テニスコートのうちの4面がハードコートになっている。講義棟と呼ばれていた校舎は学生棟となった。

(『地図・空中写真閲覧サービス』 国土地理院)

東洋女子短期大学の校舎の整備が着々と進む流山校舎だったが、1981年と1982年の2回台風による豪雨で洪水の被害を受けた。(4枚目写真)

昔、この地域は坂川を堰き止めれば川の水が周囲の水田に供給できる程の低地で、大雨が降ればしばしば氾濫を起こしていた。そのため、1970年代から1991年まで建設省主管の20年計画で堤防のかさ上げをする改修工事が行われていた。
5枚目の航空写真には1987年に竣工したばかりの3号館が写っている。また、坂川の堤防が改修され川幅が拡がった分、グラウンドが狭くなっているのも確認できる。本学が、既存の建物の北西側に土地を拡張して1・2号館を建設し、流山キャンパスの敷地が緩やかな円弧を描く坂川に沿う扇のような形になった背景には、坂川治水工事があったのである。坂川治水工事が完了して以降、洪水は発生しなくなった。

(『地図・空中写真閲覧サービス』 国土地理院)

4.2 開学から完成認可までの流山の校舎

下の表は、東洋学園大学が開学してから1998年までに建設された施設の一覧である。名称や用途、面積等は、届け出の時期によって変化しているが、おおむね過去の届け出書類等に基づいた。

これは、開設時の流山キャンパスの校舎を写した写真である。

正面の建物が大学開学のために建設された校舎で、3階建の部分が5号館、7階建ての部分が6号館である。5号館の2・3階には短期大学と共用の視聴覚センターの施設(LL教室、テープライブラリ等)があった。6号館が大学の専用校舎で、1~4階が教室だった。1階には120人教室と180人教室、2・3階にはクラス単位の授業ができる約50人の教室、4階には少人数授業のためのゼミ室があった。ゼミ室にはPC(Macintosh)を備えた教室も含まれていた。前年(1991)度には東洋女子短期大学の本郷・流山両キャンパスにPC(PC-98)を各25台設置した教室ができ、課外でワードプロセッサ講座が始まっていた。
5階から上には教員の研究室、集会室、講師室があった。左側の影になっている部分が1号館で、1階には短期大学の事務室、2・3階には共用の図書館があった。右に見えるカマボコ型の屋根の建物は第1体育館で、大学設置申請に伴ってステージ付の第2体育館(下の写真)が建設される以前は、「体育館」と番号なしで呼ばれていた施設である。

開学時の流山キャンパス全体の施設の配置は上図の通りだった。大学と短期大学の共用の5号館を挟んで、大学専用の6号館(緑色の部分)と主に短期大学専用の1・2号館(オレンジ色の部分)が並び、その他の施設は大学と短期大学の共用となっていた。「正門」と「西門」の二つの門があったが、大学生も短大生も駐輪場、校舎の両方に近い「西門」を使用する学生が多かった。

開学後、最初に完成したのは「学生ホール」と呼ばれる建物だった。この建物は、4号館(学生棟)に隣接した設備棟の予定地に建設され、計画を変更して大学と短期大学の共用施設として1992年7月に着工、翌年3月に竣工した。延床面積648m²の2階建てで、1階は食堂を兼ねた学生ホール、2階には打ち合わせに使える部屋が設けられていた。

学生ホールは運動場に面しており、自動販売機も設置されていたため、大学の学生にとって部活動以外でも気軽に集まれる便利な場所となった。しかし、1つのキャンパスを大学と短期大学で共有する難しさも浮かび上がった。例えば、共用施設として大学生が多く集まると、短大生が利用しづらいという声が上がった。一方で、大学生の間では、保健室や学生相談室が主に短大専用の1号館・2号館に設置されていて利用しづらいという不満も出た。
同好会が募集のポスターに「短大生も歓迎」と書いたことが、「交流校としてでなければ共同活動は認められない」と注意の対象となった時代のことである。

4.3 完成後の校舎等施設拡充とメディアセンター誕生

1996年3月20日(水)、東洋学園大学は最初の卒業生250名を送り出し、大学としての完成を迎えた。それに伴い、設置計画に基づく文部省の履行状況調査(通称アフターケア)も終了した。その後、学園はすぐにキャンパスのさらなる拡充に取り掛かり、7号館、8号館、体育館、学生会館(下図の緑色部分)の建設を進めた。

7号館は6号館の南側に建設され、8号館は第1体育館があった場所に建てられることになり、第1体育館は事前に解体された。新しい体育館と学生会館は正門から見て左奥の運上場部分に建設されることとなった。
3月28日(木)、建設予定地ごとに2回に分けて地鎮祭が行われ、1年がかりの工事が始まった。

2箇所(左が7・8号館、右が体育館・学生会館の予定地)で行われた地鎮祭
2枚とも列の左から宇田理事長、廣澤法人本部事務局長、何川大学事務局長、黒澤法人顧問
後ろに見えるのは、1号館、5号館(左写真)、2号館(右写真)

1997年3月、新年度を目前に控えた時期に、すべての施設が完成した。下の表は、新校舎が完成したことで大学の学生が授業で使用可能になった教室の一覧で、左は既存で右が新設教室である。単純に数を比較するだけでも、教室の増加による余裕が感じられるだろう。

1992年の開学から4年間、学生が授業で使える教室は、大学専用の6号館と短大と共用する3号館・5号館の一部だけだった。このうち、100名以上が収容できる教室は6号館の6101と6102の2教室に限られていた。しかし、新たに7号館が完成し、180席の教室が2つ、380席の教室が1つの合計3教室が加わった。これにより、履修希望者が多すぎて教室に収容しきれず、開講数を増やしたり人数制限をかけたりする必要が大幅に減少した。
また、380席を有する7301教室は、7号館の3~4階を使用した階段教室である。この教室には教材提示装置やDVD、CDなどの再生機器が備えられており、50インチのマルチディスプレイを活用した大画面を使って授業をすることができた。

さらに、7号館と8号館の建設には学園組織として重要な意義があった。それが「メディアセンター」の設立である。
少し遡るが、1995年11月15日の教授会で、宇田副学長(理事長)が次のように報告している(以下要約)。
「平成7年度の補正予算で、短期大学を設置する学校法人に対し、教育用LAN導入への補助金が配分されることになった。学園では、東洋女子短期大学本郷キャンパスで予定している導入計画について、この補助金に申請する準備を始めた。本郷キャンパスで計画中の教育用LANは、1996年に流山キャンパスで着工予定の新校舎のモデルともなる。このLAN完成後にはメディアセンターを設置し、両キャンパスのシステムを管理する技術者を配置する予定である。現在はメディアセンター準備室という仮称で、副学長、谷本助教授の他、常勤職員3名、非常勤職員1名、嘱託職員2名が配置されて、事務用LANの整備も担当している。」
この報告に基づき、メディアセンターの事務室が7号館の2階に設けられ、渡り廊下でつながる8号館2階のPC教室とともに、施設として、そして組織としてのメディアセンターが誕生した。

発足当時の7~8号館2階部分のレイアウトは下図の通り、PCゼミ室(8204)が1室、PC教室(8205・8206)が2室、そしてPC自習室1室の4室に学生用のPCが合計210台設置された。また、先行していた本郷キャンパスと流山キャンパスの両メディアセンターの間は専用回線で結ばれ、在学生には電子メールアドレスが発行された。

そして、新しい体育館と学生会館も完成した。この工事により、開設当初に建設された第2体育館が「第1体育館」、新しい体育館が「第2体育館」と呼ばれるようになった。学生会館は鉄筋コンクリート3階建てで、1階には和室、合宿所、音楽スタジオ、集会ロビーなどが設けられ、2~3階には部室が配置されている。これにより、学生が部活動にいつでも利用できる拠点が整備された。

新しい第2体育館も鉄筋コンクリート3階建てで、開設時(1992年)に建設された第1体育館の2倍以上の広さを持ち、2~3階には常設の観覧席348席があり、さらに1~2階は必要に応じて使用できる引き出し式の294席が追加可能な構造となっていた。この第2体育館の完成後は、入学式や卒業式などの行事もこの体育館を使用して行われる他、スポーツ以外にも幅広い用途で利用されるようになった。近隣の行事に施設を貸し出す機会も増えた。

4.4 9号館竣工・流山キャンパス全施設完成

7・8号館、体育館、学生会館が完成して数か月後、9号館の建設工事が始まった。そして約1年間の工期を経て、1998年9月10日(木)に竣工した。設計者は「9号館の建設は、キャンパス整備の総仕上げとなる工事で、5・6号館の建設時に描いていたキャンパスの全体像を、6年かけて実現することができた」と語っている。

9号館は鉄筋コンクリート3階建てで、正門に最も近い場所に位置している。正門を入って右側の1階には総務、受付、入試センターがあり、2階には教務、学生、キャリアセンターなどの学生窓口が並んでいる(後に国際交流センターや教養教育センターも加わった)。

全ての建物は2階部分で屋根付きの渡り廊下やスカイブリッジでつながれており、学生はこれを通じて屋外に出ずにほとんどの教室や事務窓口の間を移動可能になっていた。

また、5号館1階の旧大学事務室部分は学生用トレーニングルームに改装された。さらに、この工事に伴い、開学時に最初に建設された学生ホールが「9号館別館」となって、学生相談室と保健室がこの別館の2階に移転したことで、より学生にとって利用しやすい施設となった。

4.5 図書館、検索システム、学術情報ネットワーク

現在、スマートフォンやその他のデバイスは、コミュニケーションだけでなく、支払など日常生活のあらゆる面に浸透している。東洋学園大学が開学した1992年当時、若者の間で流行していたのはポケットベルであり、携帯電話の小型化がようやく始まった頃だった。それから約30年が経過し、2022年に公開された「生成AI」が瞬く間にツールとして広く普及したのは、情報インフラが驚く程の速度で進化したことと無関係ではないだろう。東洋学園大学の歴史も、このような時代の流れと共に歩んできた。コンピュータ等のOA機器の導入が大学の事務サービスを効率化させたように、情報インフラの進化は図書館の業務・サービスに大きな変化をもたらしている。
1970年頃、東洋女子短期大学本郷校舎の旧1号館5階(現在の1号館の食堂部分に該当)に図書館があった。当時の写真を見ると、手前に引き出しが並んだ棚(カードケース)が大きく写っている。これが当時の図書館の象徴的な存在だった目録カードのケースである。

引き出しの中には書名、著者名、出版年、請求番号等を記載した目録カードが収められていた。東洋学園大学が開学する少し前までは、利用者がカードケース内の目録カードを一枚一枚めくりながら目的の本の情報を検索するのが普通だった。
1986年、本郷と流山の両キャンパスにPC(PC98シリーズ)が導入された。当時、学内の各部署では既に事務用のPC(N5200シリーズ)が使用され始めていたが、図書館の導入開始はやや慎重だった。理由の一つは、図書館にはすでに約10万冊の書籍があり、「目録カード」による蔵書目録が広く定着していたからである。コンピュータを導入すれば、すぐに本が検索できるわけではなかった。
最初にPCを使用した作業は書店への本の発注リスト作成で、注文する本の情報をデータベースに入力することだった。書店から本が納品されると、同じデータベースに請求番号やその他の書誌データを追加記入した。この作業により、新規購入の本の情報を発注段階からデータ化する目途が立ったが、既存の約10万冊分の書誌データを遡及入力(過去に遡って入力)する作業は依然として課題だった。1988年、国立国会図書館が所蔵する書誌データをCD-ROM(J-BISC)の形で提供し始め、本学でも翌年からこの提供を受けることで、書誌データ整備の効率が向上した。この時期は東洋学園大学の開設準備時期と重なり、設置申請に必要な「図書目録」の作成にもPCが利用された。
1991年、PCへの書誌データの遡及入力は進んだが、記憶容量が限られていたため、従来の目録カードを代替するには至らなかった。そこで、学園は図書館に専用システムの導入を決定し、丸善(当時)が提供するCALISという名前のシステムが導入された。流山キャンパスの3号館にDEC社のVAXシリーズのミニコンピュータ、本郷と流山の図書館には専用の端末機が設置された。これにより、図書の受け入れから書誌データの登録、配架、検索まで一連の流れが一つのシステムで管理され、流山の図書12万冊と本郷の図書の一部をオンラインの蔵書目録(OPAC)で検索することが可能になった。

1992年、日本で初めてインターネット接続サービスが開始され、「インターネット」という言葉が広がり始めた。1995年に発売されたWindows95がインターネット接続機能を備えたことから、インターネット時代の幕開けとなった。この年に本学に着任した小林素子主任司書は、宇田正長理事長に「これからの大学図書館において最も重要なのはコンピュータとネットワーク環境の整備である」と述べた。宇田理事長自身も同意見で、図書館の情報化が加速した。
西暦2000年を迎える前、マスコミ等で「2000年問題」という言葉が話題となった。内蔵されたカレンダーが西暦の下2桁しか使用していないコンピュータは、2000年になると下2桁が「00」となるために異常を来たすという問題だった。導入して10年が経とうとしていたCALISシステムが2000年問題に該当するシステムであることがわかり、何等かの対応が必要となった。1997年、図書館はその対策として、図書館のシステムを日本アイ・ビー・エム社のLibVisionに移行した。これにより、2000年問題を回避できただけでなく、インターネットを通じた外部機関との接続・連携が可能となった。
本学の図書館はこの移行を機に学術情報センター(当時)の総合目録・所在情報データベース(NACSIS-CAT)に接続し、共同で目録を作成する事業に参加し、日本最大の総合目録作成に貢献した。さらに、本学は1999年に中央学院大学、江戸川大学、川村学園女子大学、麗澤大学と東葛地区5大学図書館相互利用(TULC)を開始した。この取り組みは、他大学との協力関係が整ったことを背景にして実現できたものである。

上の写真は、現在の1号館6階にある図書館内の写真である。カードケースはなくなり、代わって検索用のPCが並んでいる。

5 教育課程

5.1 人文学部の最初のカリキュラム

第5節では東洋学園大学の教育課程を振り返る。大学は完成認可を受けるまでの4年間は申請時の年次計画を履行することが前提となる。第1項では初年度(1992年度)の学生便覧を通して開設から完成年度(1995年度)までの教育課程を見る。
本学の構成については以下のように記載されている。

本学の構成

本学(Toyo Gakuen University)は、人文学部(Faculty of Humanities)の1学部、英米言語学科(Department of English Language)および英米地域研究学科(Department of English Area Studies)の2学科で構成されている。
本学人文学部は、英米言語学科では”言語学的側面”から、英米地域研究学科では”地域研究的側面”から、それぞれ異なった2つのアプローチで、1つの共通の目的、すなわち「高い理想のもとに深い教養と正しい判断力を身につけ、広い国際的視野と語学の素養を基礎に、国際関係を深く理解しうる人材の育成」(学則)という目的を追求する。
英米言語学科と英米地域研究学科には次のような特徴があるが、同時に、一般教育科目にとどまらず専門教育科目にも多くの共通科目を設けるなど、両学科相互に積極的な交流ができるように配慮されている。

・・・以下略・・・

(『学生便覧』 東洋学園大学 1992)

以下は、人文学部が開設された1992年から完成認可された1996年までの間に、2つの学科で開講されていた授業科目の一覧である。表は左から右へと学年が進み、学年ごとに上から下へ授業科目名が科目区分に分類して記述されている。両学科共通で、一般教育科目(人文、社会、自然の3分野)、外国語科目、保健体育科目という、現在ではあまり見られない区分名が使われている。この区分名は、本学の設置申請と審査が行われた当時の「大学設置基準」に基づくものである。しかし、開学1年前の1991年に実施された「大学設置基準の改正(いわゆる大綱化)」によってこれらの区分名は廃止され、教養教育科目や共通教育科目などと呼ばれるようになった。
本学の開設当初、一般教育科目などの3区分は両学科共通で提供され、専門教育科目は2年次以降に学科ごとに分かれていた。そのため、1年次の時間割は、一般教育科目などの3区分のみで構成され、両学科共通の内容になっていた。

(『学生便覧』 東洋学園大学 1992)

2年次以降の専門教育科目にも両学科共通の区分があるのは、学科間の相互交流を意識したものである。
学科別の授業を見ると、2年次では「総合研究英語」(英米言語学科必修)や、「総合研究アメリカ」と「総合研究イギリス」(英米地域研究学科選択必修)が中心となり、3年次に開講される「〇〇研究1~4」の講義科目や、4年次の「〇〇研究ゼミ1~4」のゼミ科目へとつながる流れが、それぞれの学科の特徴を示している。また、3・4年次には総合研究以外にも、言語、文化、社会、経済、地域研究に関連する講義やゼミが開講され、4年次のゼミ科目をより多く配置することにより、徐々に専門性を深める構成としていた。

5.2 人文学部2学科のカリキュラム改訂

1995年度に本学は完成認可を受けたが、18歳人口は1992年以降減少が続いており、さらに新しい取り組みが必要だった。完成認可後からの取り組みで完成した1997年度入学生対象の新カリキュラム(下表)を導入したのもその対応の一環と言える。

(『学生便覧』 東洋学園大学 1997)

1997年度のカリキュラム改訂の主題は設置基準の大綱化への対応だった。改訂前の一般教育科目に該当する部分は「基礎科目」、外国語科目は「語学科目」、保健体育科目は基礎科目に統合して選択科目にした。その他、国語表現法を一般教育科目から語学科目の日本語の区分に移す等、区分ごとの科目数の適正化を図っている。
専門教育科目の大きな改訂点は、両学科に「共通専門教育科目」という区分を設け、1年次に新たに「情報機器演習」を置いたことと、2年次の専門教育科目を6科目から14科目に増やし、専門分野の授業にふれる機会を早めたことである。また、共通専門科目に「上級英語ゼミ1~6」を3年次から追加したことによって、より少人数でゼミの授業を行うことができるようになった。

5.3 人文学部コミュニケーション学科設置

1997年に人文学部では英米言語学科と英米地域研究学科のカリキュラム改訂をすると、翌1998年にはコミュニケーション学科を増設する申請に着手した。申請に伴って、人文学部全体のカリキュラムも大幅な見直しが行われ、1999年5月に申請が行われ7月に認可を受けた。
下表は申請に伴って改訂が行われた人文学部全体の授業科目一覧である。1997年の改訂で「基礎科目」に変更された区分が「共通科目」とされ、さらにその下位区分が「入門のための科目」、「人間を理解する」、「自然・身体を理解する」、「社会を理解する」、「世界を理解する」、「情報に関する科目」となり、学部に共通する専門分野の一部もこの区分に含まれるよう改められた。また、講義科目においては、これまでの一律通年単位制を改め、講義内容を前期と後期にわけて評価を出す「セメスター科目」(表内では*印の付いた科目)を増やした。短期集中の効果等も期待されるセメスター(2学期)制にも対応をしている。

(『学生便覧』 東洋学園大学 1997)

下表は、既存の英米言語学科と英米地域研究学科の専門教育科目の一覧である。ゼミ以外の科目はほとんどの科目がセメスター科目となった。しかし、セメスター科目といっても授業内容としては通年の授業を前期と後期の内容で分けて科目名の後ろに「A」「B」を付したものが多く、通年制からセメスター制への過渡期と言うのが相応しいかもしれない。
また、上級英語ゼミの名称は後ろに( )書きでゼミの内容を加えるなど、分かりやすいものに改められている。

(『学生便覧』 東洋学園大学 1997)

下表が人文学部に新しく増設された「コミュニケーション学科」の科目一覧で、総合研究、研究、研究ゼミと続く構成は既存の2学科と共通である。科目名を見れば、「ビジネス」、「メディア・情報」「人間・文化」が当学科の専門領域ということが理解できるだろう。

(『学生便覧』 東洋学園大学 1997)

「コミュニケーション学科」の増設は、先に実施されたカリキュラム改訂とは異なり、18歳人口が減少する状況下で、大学の入学定員100名(編入学定員20名)増を伴うもので、学校法人東洋学園の決断によるものだった。
1997年1月、「平成12年以降の高等教育の将来構想について」という大学審議会の答申が発表された。この答申では、今後の高等教育の方向性として次のように述べられている。「高等教育機関に学びたいという意欲が高まっており、これを積極的に受け止めることが必要。」一方「18歳人口の減少に伴い、今後、大学等にとって一層競争的な環境が予想される。各大学等は、自らの責任において、それぞれの教育研究の在り方を工夫していくことが必要。」さらに「高等教育の規模に関する考え方」として、「臨時的定員を平成16年度までの5年程度の間で段階的に解消する」「そのうち原則として5割までは恒常的定員化することを認めることが適切」としている。
この答申を大学の立場で要約すると、「進学率は上昇しているものの18歳人口が減少し、大学間競争は一層厳しくなるので、各大学は自らの責任で工夫することが求められる。臨時的定員については、その半分まで恒常化を認めるが、2004年頃までには解消すべき」という内容になる。
これを受けて学校法人東洋学園は、1985年以東洋女子短期大学欧米文化学科が維持してきた臨時定員200名のうち、その半数にあたる100名を東洋学園大学人文学部コミュニケーション学科の定員に振り替える形の申請を行ったというのが、1997年の学科設置の経緯である。

5.4 新学部・新学科申請へ

2000年を迎え、18歳人口の減少が進む中、大学間の競争はますます厳しくなった。大学審議会の答申にもあるように、高等教育機関は学びたいという意欲を積極的に受け止め、自らの責任で教育や研究のあり方を工夫する必要があった。こうした状況の中、学園は以下の2つの設置申請を並行して進めることを決めた。

  1. 人文学部に心理系の新学科を設置し、入学定員100名(収容定員は4学年で400名)とする。この定員は短期大学欧米文化学科の入学定員200名(収容定員は2学年で400名)に対応する形となる。
  2. 本郷に経営学系の新学部を設置し、入学定員175名(収容定員は4学年で700名)とする。この定員は短期大学英語英文科の入学定員350名(収容定員は2学年で700名)に対応する形となる。

前者の「人文学部人間科学科」は2001年3月28日に設置認可申請を行い、後者の「現代経営学部現代経営学科」は2001年4月26日に申請された。それぞれ2002年4月に設置が認められた。
現代経営学部は、東洋女子歯科医学専門学校の創立以来受け継いできた本郷を設置場所としている。新たに設置された現代経営学部現代経営学科と人文学部人間科学科の詳細については、第5章で扱う。

6 学生の受入れ

6.1 様々な選抜方式

本項では、本学の学生の受け入れを振り返る。はじめに国公私立大学で一般的に行われてきた選抜方式の変遷を簡単に整理しておこう。
かつて「大学入試」といえば学力試験選抜という時代があった。書店には全国の大学の過去問題集を棚一杯に並べたコーナーがあり、入学試験シーズンが終われば一般誌でも出身高校毎の合格者数を大学別に集計した特集が組まれるなど広い関心を集めていた。学力試験による選抜方式を一般選抜と呼ぶのはその名残と言っても良いだろう。
第1節・第2項で述べたように1966年当時の大学進学率は12%で、その頃までは一般選抜のみの時代が続いた。その後、進学率が急上昇する中でいわゆる受験競争が激化し、入試問題に難問・奇問が増加する等、高校教育への悪影響が懸念されるようになった。こうした問題への対策として、より調査書を重視する「推薦入試」(1967年~)、全国共通の良質な問題で学力を判定する「共通一次試験」(1979年~)、小論文なども含む多様な方法で選抜を行う「AO入学試験」(1990年~)など様々な選抜方式が誕生した。
2024年現在、大学進学率は58%に達し、大学は既にユニバーサル段階を迎えている。このような社会環境の中で入学者が持っているさまざまな背景や学び方に対応しようと、それぞれの大学が多様な選抜方法を導入している。今日、一般選抜は多様化した選抜方法の内の一つとなっている。
本学で行われている入試選抜区分を元にして、それぞれの制度の特徴を表にまとめるとおおむね以下のように整理することができるだろう。

1.の学校推薦型選抜は、出身校の学校長の推薦を受けて出願し、面接や小論文などで選考する方式で、高校での実績が重視される。学校推薦型選抜は「指定校制」と「公募制」の2種類に分類できる。公募制では、評定平均値などの基準を満たしていれば、人数に関係なく出願が可能である。一方、指定校制では大学が特定の高校毎に推薦枠を設け、多くの場合志願者は合格した場合は必ず入学することを前提とした「専願」として出願する。指定校制では、推薦枠に選ばれるとより高い合格率で早期に進路を決めることができる。また、スポーツ推薦は本学では人間科学部人間科学科で実施している。学校長から推薦を受けた受験生を対象に、本学の「運動部活性化指定団体」であるテニス部や硬式野球部での実技選考も行われる。
2.の総合型選抜は、小論文や面接、口頭試問、プレゼンテーションなどの対話形式を通じて選考される方式で、入学後の可能性が重視される。本学のアドミッション・ポリシー(求める学生像)に合った受験生を選ぶことを目的としている。もともとはAO(Admissions Office)入試と呼ばれていたが、文部科学省の大学入学者選抜改革により、2021年度から「総合型選抜」に名称が変更された。名称だけでなく、内容も求める学生像に合うかどうかに加え、基準に基づいて「学力」も評価する形に改められている。学校推薦型選抜と総合型選抜は、多くの場合、年内に進路が決定するため、両者を合わせて「年内入試」と呼ばれることもある。
3.の一般選抜は、学力試験を課し、その試験結果に基づいて合否を判断する学力重視の選抜方法である。本学では、大学が独自の問題を作成して選抜する方法として、現在は英語と国語の2教科の試験(国英2科目方式)を採用している。
共通テストは1979年に全国の国公立大学の受験生が一斉に同じ試験を受ける制度として始まった「共通一次テスト」が原形で、時代と共にその形を変えたものである。1990年からは私立大学でも採用する「大学入試センター試験」となり、その後大学入試改革が行われる中で、受験生の思考力や判断力、表現力を重視する観点で教科ごとに配点や試験時間、出題形式などの見直しが行われ、2021年に「大学入学共通テスト」という名称と改められている。
英語外部試験利用法式は、英検やGTEC、IELTS、TEAP、TOEIC、TOEFL等の外部の検定試験のスコアを用いる選抜方法で、現在本学では換算表を使用して「みなし得点」を算出し英語の得点としている。

6.2 開学当時の学生募集

東洋学園大学が開学したのは、18歳人口の増加と進学率の上昇によって、大学への社会的ニーズが高まっていた時期だった。そのため、本学以外にも多くの大学が新設され、学部の増設も活発に行われていた。当時、千葉県私立大学短期大学協会には約20の大学と約10の短期大学が加盟しており、1987年から1995年にかけては本学を含む15校が新設された。加盟大学の会合では、「新設間もない大学です」と自己紹介する場面が多く見られた。このような時代背景のもとで本学は誕生し、時代の変化とともに選抜方法も多様化していった。1992年の入学試験では、下記の通り、一般入学試験と推薦(公募制)入学試験の2種類の形態で選考を実施していた。

東洋学園大学の1992年の入学試験

【一般入学試験】
英語:英語Ⅰ、Ⅱ、ⅡB、ⅡC 9:30~11:00 90分
国語:国語Ⅰ、Ⅱ(古文・漢文は含まず) 12:00~13:00 60分
【推薦入学試験】
英語基礎学力テスト 9:30~10:30 60分
面接 12:00~16:00

一般入学試験では、志願者に英語と国語の2教科の学力試験を課し、推薦入学試験ではマークシート方式の英語基礎学力テストと面接を行っていた。基礎学力テストは10時半に終了し、面接は12時から16時までの間に1人10分程度の面接を受け、面接が終了した受験生から順次帰宅するスケジュールだった。基礎学力テスト終了から面接までの待機時間には、志願者は持参した昼食をとり、面接担当の教員は調査書、願書、当日のテスト結果を確認しながら面接をするための準備を進めていた。
下の図は、開学時から1996年度までの志願~入学までを推薦と一般に分けてグラフ化したものである。大学は開設後4年間(1995年度まで)を経て完成認可が受けられるが、1996年度の募集は前年度に行われるため、グラフに表された期間が設置計画履行中の入試状況と言うことができる。

全体的な志願者数を見ると、1992年のピークを境に18歳人口が減少し始め、それに伴って志願者数も右下がりの傾向を示している(18歳人口や高等教育機関への入学者数・進学率などの推移を参照)。1992年の競争率は、推薦入試で7.5倍、一般入試で6.9倍となり、入学者数は入学定員の1.13倍にあたる249名だった。
試験区分別に見ると、1992年度では一般入試の志願者数が各学科で1,000名を超えており、当時は一般入試が中心だったことがわかる(推薦入試の志願者数は英米言語学科が345名、英米地域研究学科が244名、一方、一般入試の志願者数は英米言語学科が1,157名、英米地域研究学科が1,405名だった)。
さらに、試験区分と学科別の志願者数を比べると、推薦入試では毎年、英米言語学科の志願者数が英米地域研究学科を上回っていた。しかし、一般入試では、前年に高倍率だった学科を避ける「隔年現象」が見られ、少しでも合格率を上げようとする受験生の心理が反映されていた。また、完成年度となる1996年度の入試結果を見ると、競争率は推薦入試で1.8倍、一般入試で2.7倍に達し、入学者数は定員の1.23倍にあたる271名となった。この結果、本学は開学以来最多の入学者を迎えた。しかし、大学関係者の間では18歳人口のピークの1992年を過ぎた後は減少が続いており、大学はこの現状に対応する対応が課題ということが共通の認識だった。そして、本学も同様の課題認識を共有していた。

6.3 学生受入れのための試み

大学は完成認可を受けるまでの間は大幅な計画変更ができないため、選抜方式は設置認可申請時の計画を履行しながら、広報に力を入れて「東洋学園大学」の認知度を高める努力をした。1992年度は受験生を対象に下記3回のオープンキャンパスを実施している。

すべての回で行方学部長が全体説明を担当し、各回交替で2名の教授が模擬授業を行った。施設見学、個別相談は職員も対応した。
10月17日(土)実施当日のアンケート結果(101件回収)が残っている。自由記述には「分かりやすくためになった」「先生方が熱心ですばらしい」などが多く、全体説明や模擬授業が良い印象を残していたことがうかがわれる。また、他に興味のある学校(1名の学校は省略)の結果をみると、短期大学では唯一東洋女子短期大学に興味をもっている受験生が複数いたこともわかる。

1993年6月19日(土)には、初めて高等学校の進路指導教員を主な対象とした説明会を企画した。1994年度入試から東洋女子短期大学でも推薦入試が導入されることが決まったため、大学と短期大学が合同で説明会を開催した。受験雑誌『螢雪時代』の編集長を長年務めた旺文社の代田恭之専務を講師に招き、146校から155名が参加する会となった。
また、この頃から本学の在学生に対して、出身高等学校で行われる進学説明会に参加するよう依頼するケースが増えてきたため、公欠を適用するなどして対応し、本学の認知度向上に向けてできる限りの努力を重ねた。
1996年3月20日(水)、東洋学園大学は最初の卒業生250名を送り出し大学として完成を迎え、翌年度の学生募集からは大学が独自の判断でより適切な方法を導入できるようになった。変更したのはこれまで英米言語学科と英米地域研究学科の2学科に分けて行われていた募集を、人文学部という1つの学部として行う方式だった。
一般入試で生じていた隔年現象は、受験生が「どちらが合格しやすいか」という基準で志望学科を選択するため、前年の試験で競争率が低かった学科の志願者が増えてしまうことから生じる。一学部としての募集は、合格し易さではなく、自分の関心や学ぶ目的で進路選択ができる機会を受験生に提供する配慮だった。人文学部の2つの学科では開学当初から1年次は共通の授業時間割構成となっており、各学科の専門科目は2年生以降に配当されていたので、入学後の最初の1年間は学科選択をするための期間とすることが可能だった。1997年度の学生便覧には以下の記述がされている。

学科の選択

学科の選択は1年次の終わりに行い、学科専門の授業は2年次から始まる。受験生の時よりも、入学して本学の人文学部の特色を理解した後の方が、自分により相応しい学科の選択が可能である。それが、1年次では学科に分けずに授業を行っている理由である。学生はこれまでの興味にとらわれることなく、1年次を有効に利用し、2年次以降の学科選択を考えながら授業に臨むことが望ましい。
学科選択の目安として、Course Guide Lecture Seriesという名称のガイダンスが年間10回程度実施される。学生諸君が自分に相応しい学科を選び有意義な大学生活を送るためには、このガイダンスのすべてに出席することが、最も大切なことである。
各学科への偏りがある場合には、1年次の成績とCourse Guide Lecture Seriesへの出席参加への熱意により振り分けることがある。その点に留意して、1年次の勉学に精を出すことが必要である。

(『学生便覧』 東洋学園大学 1997)

1997年から始まった学部単位での募集が、本学が完成認可を受けた後に行った学生受入れにかかる最初の試みだった。しかし、この試みの後も総志願者数の漸減傾向は続いた。一方、入学者数を見ると1998年は定員の1.35倍にあたる297名の過去最多となるなど、以後の学部増設計画を進める礎ともなった。1997年の試みが選抜方式に限らず教育課程改善の視点も含めたものだったことは、大学にとって意味のある試みだったと言えるだろう。

6.4 大学入試センター試験利用入試

大学完成年次以降、本学では推薦入試や一般入試以外の選抜方法も導入した。1999年の選抜から採用されたのが、「大学入試センター試験」利用選抜だった。大学入試センター試験は、国公立大学の選抜で実施されていた「共通一次テスト」が私立大学でも利用できるように、1990年から制度変更されて始まった試験である。この選抜方式には、受験生側と大学側双方にメリットがあった。受験生にとっては、センター試験を受験すれば複数の志望大学に出願し、選考を受けられる利点がある。一方、大学側にとっては、試験日の重複や遠隔地の問題で出願できない受験生を取りこぼす心配がなくなるという利点があった。しかし、センター試験利用の出願者の中には、事前に大学を見学していない受験生が含まれ、本当に本学を志望しているのか判断しづらいという理由で、慎重な声が少なからず存在していた。それでも、私立大学でセンター試験を導入する動きは広がりつつあり、1998年時点では、全国にある444の私立大学のうち180大学(4割以上)が既に導入していた。(「1990年代頃の大学入試センター試験利用状況」参照)この状況を踏まえ、学生募集の機会を増やすために本学でも導入することが教授会で承認された。

本学では、大学入試センターに利用の登録申請を開始した。申請時には大学が試験を事故なく実施できる施設設備を有していることを書類で証明しなければならない。例えば、試験問題は事前に大学入試センターから折り畳み式のコンテナ詰に詰められて実施大学に届けられるのだが、試験当日までに試験室毎に仕分けをした後、厳重な管理のもとで保管できるよう防犯設備を備えた充分な広さのある部屋が必要だった。登録申請の1998年9月に竣工予定の9号館の一角にはセンター試験問題専用の保管庫が設置されることになった。
大学入試センター試験の利用大学は全国一斉に行われる試験当日に試験の実施を分担することになるが、「大学入試センター試験の概要」は試験を以下のように定義していた。

(1)目的及び主旨

  • 大学入学志願者の高等学校段階における基礎的な学習の達成の程度を判定することを主たる目的として実施。
  • 各大学が、大学入試センターと協力して、同一の期日に同一の試験問題により共同して実施するもの。
  • 各国公私立大学は、大学教育を受けるにふさわしい能力・適性等を多面的に判定するため、大学入試センター試験と独自の試験を組み合わせることにより選抜を実施。

(『大学入試センター試験の概要』 文部科学省)

定義の2つ目の〇印に記載されている「共同して実施する」という文言の意味は、センター試験の2日間だけ施設を貸し出すということではなく、各利用大学が全国共通の実施要領に基づいてセンター試験を行うことを指している。夏には、各都道府県別に翌年度のセンター試験を利用する大学の事務担当者が集まり、試験実施の改善点に関する意見交換や、各大学の試験場ごとの受験者数の調整が行われた。本学を使用した試験場では550名の受験生を受け入れることになった。
秋になると、1999年度からセンター試験を利用する約40の大学の担当者が全国から駒場にある大学入試センターに招かれ、センターの組織や施設を紹介する催しが開かれた。センター職員の中には、約10年前の大学設置申請時に行政課で本学を担当した職員も含まれていた。その後大学入試センター勤務に変わっていたのだ。催しの最後には、センター内で立食形式の情報交換会が行われ、そこで高等学校コード等のデータが提供されているという情報ももたらされた。インターネットで情報を提供する前の時代のことで、本学は後日データ提供の申請書と磁気テープを持参して再び大学入試センターを訪れ、全国の高等学校のデータの提供を受けた。これによって、大学入試センターが定めた高校コードを入力するだけで、出身校の場所、設置区分、名称などが正確に転記される仕組みが完成し、本学の願書受付業務を効率化することが実現できた。
1月16日(土)と17日(日)の両日がこの年の大学入試センター試験の試験日で、本学も流山のキャンパスを使用して初めて大学入試センター試験を実施した。両日とも比較的穏やかな天気に恵まれ、交通機関のトラブルもなく2日間の試験を計画通り無事完了することができた。
1999年度のセンター試験利用入試では、本学への出願者数は全体で7名だった。しかし、2000年度には34名、2001年度には51名と、センター試験利用入試が認知されるにつれて出願者数は着実に増加していった。

6.5 AO入試

大学完成年次以降、本学が導入したもう一つの選抜方法はAO入試だった。この方式は、入学許可を担当する事務局(Admissions Office)で選抜を行うアメリカの選抜制度をもとにして、1990年に日本の私立大学がAO入試の名称で導入した制度である。従来の選抜方法が学力試験や出身校での評定値など、学力に重きを置いていたのに対し、AO入試は受験生の人格や入学後の可能性にも注目し評価する、新しい選抜方法として注目を集めた。この方式は徐々に他大学にも広がり、2000年度には一部の国立大学でも実施されるようになった。本学では、2001年度の入試からこの方式を採用した。
当時の本学のAO入試では、エントリーと出願を明確に区別していた。エントリーの際には調査書などの出願書類の提出は求めず、以下の手順で選抜が進められた。まず、午前10時から1時間の小論文試験を行い、その後、11時20分から5分程度の面談を実施した。面談中には小論文の採点も並行して行われた。そして、午後1時半には小論文と面談の結果をもとに選考が行われた。選考結果は後日、本人と出身高等学校に「出願許可」または「不許可」として郵送で通知された。出願許可を受けた受験生だけが出願し、その後、合格、入学手続き、最終的に入学許可へと進む仕組みになっていた。
第1項で述べたように、学校推薦型選抜と総合型選抜は実施時期から「年内入試」と呼ばれることがある。本学でも、AO入試は8月からエントリー受付を開始し、年度末まで繰り返し選抜を行った。この選抜方法は本学にとって全く新しい取り組みだったにもかかわらず、初年度の2001年には51名のエントリーがあった。これは、制度の認知度が既に高まっていたことや、エントリー時に調査書が不要で早期に進路を決められる点が影響したと考えられる。
一方で、年内入試で進路が早く決まる生徒が増えるにつれ、高校からは「進路が決まると学習のモチベーションの維持が難しくなる生徒がいる」という指摘も受けるようになった。そこで本学では、2001年度から「推薦入試合格者ガイダンス」を開催し、この課題に対応するとともに、大学での学びに円滑に移行するための導入教育の取り組みも始め、その後このガイダンスの対象を推薦入試以外の入学予定者にも順次拡大していった。

主要参考文献

『教授会議事要録』 東洋学園大学 1992~1998年度

『学生便覧』 東洋学園大学 1992~2001年度

『東洋女子短期大学 本学の歩み ―創立20周年記念』 馬渡房 1971年3月31日

『学園四十年史』学園四十年史編集委員会編 東洋女子短期大学 1990年10月9日

『東洋学園八十年の歩み』 『東洋学園八十年の歩み』編纂委員会編 東洋学園 2007年3月31日

『東洋学園年表』 東洋学園史料室 2022年

『学校基本調査』 (文部科学省)

『地図・空中写真閲覧サービス』 国土地理院

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『大学は、どのように設置されるのか!?』 旺文社 教育情報センター 2005

『大学入学者選抜関連基礎資料集 第4分冊 』 文部科学省 2021年

『文部科学統計要覧(令和6年版)』 文部科学省 2024年