1. 人間科学科誕生の背景
人間科学部が人文学部人間科学科として誕生して四半世紀を迎える。いわば東洋学園100年の歴史の四分の一は<人間科学>が一翼を担って来たことになる。その誕生の経緯を、公式年表に現れない背景や変遷、葛藤にも言及しながら回顧しておきたい。それが後世への教訓となり、さらなる大学改革の礎となることを期待し、また記憶に残すことが新学科・新学部の創設に携わった者の、<歴史>に対する責務だと思う。
20世紀の終わりに東洋学園は重大な危機に直面していた。敗戦後の学制改革期に設立された東洋女子短大が大きな曲がり角に差し掛かっていた。危機はまず入学志願者数の減少として現れた。その背景は日本の女子の高等教育進学の変化にある。1960年代後半から女子の進学はまず短大中心に増加し、短大進学率が(四年制)大学進学率の2倍前後である時期が続いた。ところが1985(昭和60)年の男女雇用機会均等法制定を契機とする急激なシフトが生じ、1996(平成8)年にはついに日本全体で、女子の大学進学者が短大進学者を逆転し多数派になっていく。
そこで1992(平成4)年、短大を存続させたまま、臨時定員分を転用して四年制共学の東洋学園大学人文学部を発足させざるを得なかったが、短大の苦境はその後も続いた。また当初こそ順調であった人文学部の学生募集も、新設の「完成年度」である1996(平成8)年の前から顕著な減少傾向を示し、再び危機に直面することになった。とくに英米地域研究学科の志願者減少は著しく、1998(平成10)年以降は学科別でなく人文学部一括で募集し、成績と志望順をもとに学科に配当する方法に変更して学科定員の充足を図らざるを得なかった。
危機をより深刻にした要因の一つは、大学・短大の連携不足にあった。一例をあげれば、学生募集の「入試パンフレット」も大学・短大で別個に編集・作成され、二冊の間に相互の参照もほとんどない状況が続いた。連携を困難にした一因として、英語英文科教員の間に1970年代の短大拡張期から「四年制移行」への期待が強く、それが非公式な「東洋女子大学」構想として脳裏に存続していたことがあるかもしれない。少なくとも短大の独自性を損なうことへの抵抗感が独自パンフレットにこだわる一因であった。その状況では、英語教育と専門教育といった分業効果も、短大・大学併設の相乗効果もほとんど期待できない。その結果、短大英語英文科の卒業生が大学人文学部に編入学する事例はほぼ皆無であった。大学側の学生募集の助けとならなかっただけでなく、短大側でも入学後の事情の変化で四年制大学進学に容易に切り替えられるという選択肢を受験生に示せなかったことは、学生募集の助けにならなかった。
苦境の打開策として2000(平成12)年、人文学部に第三学科、コミュニケーション学科を発足させた。開設準備のため人文学部2学科だけでなく短期大学2学科から教員達が任命され、カリキュラム作成の検討委員会が組織された。いわば全学園的な体制で準備され、3年次編入定員枠も設定したコミュニケーション学科ではあったが、最終的な学科開設は大学独自に進められて短大側に不満感が残り、大学・短大間の連携がより円滑になったり強化されたりはしなかった。また人文学部一括募集の方式に組み込まれ、学科新設の訴求力は低下し、学生募集の面での期待を大きく下回ったし編入学もほとんどなかった。さらにコミュ二ケーション学科開設のため採用された教員2名が数年で退職するに至って、成功とは言い難い結果となった。東洋学園の苦境は一層増し続けた。
2. 誕生への始動
度重なる深化で崩壊寸前とも見える危機の中で、転機は2000(平成12)年秋の人文学部教授会での理事長(大学副学長兼務)発言から始まった。理事長からの提示は公式・非公式のものを総合すれば、①本郷校舎にすでに準備中の経営学の新学部(現代経営学部)を開設するのと同時に、人文学部に「心理学系」の学科を新設する、②人文学部および短大英語英文科の所属教員さらに相談室勤務のカウンセラーを合わせ、3名の心理学教員有資格者を所属させる、③またスポーツ科目担当の2名の教員も移籍させる、といったものであった。反面で現代経営学部に十数名の教員新規採用が必要であるのに対し、新規採用はほとんど望めず、英語やフランス語担当教員のうちから文化・歴史の研究業績を持つ者を移籍するしかないということであった。その条件で人間科学科は誕生への歩みを始めた。
2000(平成12)年10月に発足した学科新設のための作業部会は、心理学担当の3名を含めた6名の教員で構成され、ほぼ毎週本郷校舎の理事長室で開催された。ほとんどの会合に理事長も臨席したが、細部については発言を控え議論の経緯を見守る立場を維持された。構想の基本から開設科目、その他学科新設に必要な事項のほぼ全てはこの作業部会で検討がすすめられた。中間的試案も、議論の経過も、残された問題点も理事長にその場で承知してもらえ、必要があれば学園としての承認を得られるかの相談もただちに可能だった。もちろん作業部会は何ら意思決定の権限を持たず提案作成の組織だから、会合後に適宜学長・学部長への報告を行い、指摘された問題点への対応も加え、前回議論の結果を組み込んだ改訂案を次回の会合で検討するという繰り返しであった。軌道に乗ってからの各回は、主にカリキュラム表の改訂版を出発点として進められたが、最終報告としたカリキュラム表は「8版」であり、会合と会合の間の部分的改訂には「7-1」などとナンバリングして計十数枚の表を作成した。同時期に先行して開設準備をすすめていた現代経営学部の場合、学科新設と学部新設の違いもあって桁違いに申請書類の作成量が多く、コンサルタントの助言で作業が進められた。それに対し人間科学科は、ほぼ教育現場に携わってきた教員だけの力で、まったくの白紙に近い状態から学科の基本性格を描き出し、カリキュラム案を仕上げたと言える。
3. 誕生までの苦悩
このような作業部会であったから、議論は毎回、率直すぎるくらい率直なものであり、理事長の同席を忘れるほどの調子で言葉が飛び交うことも稀でなかった。会合初日から激しい対立が表面化した。最初の論争点は、心理学といっても社会心理を中心とするか、臨床心理を中心とするかという基本目標である。心理学担当の3名が真二つに分かれた。それは必ずしも自身の専攻分野に執着したのではなく、社会心理分野の教員がむしろ臨床心理を推した。対立は激昂し双方が「それならば私は(作業部会メンバーを)降りる」と言い合う状況から始まった。この対立には同僚教員であるが故に相手の個人的事情の情報があり、知人などを専任採用する意図ではないかといった疑念も紛れ込んでいたことは否定できないが、本質的には時代の変化とその中で心理学志向を持つ学生に対する認識の違い、「バブル崩壊後」の日本人の自己への関心に対する評価の違いだった。いずれにしろ心理学の専任教員が少数しか期待できない中、特定分野の体系的カリキュラムは困難で、両者とも心理学の重要な柱として並立させるという妥協策で作業部会の「空中分解」を回避し、ようやく先に進むことができた。
カリキュラム編成の縦軸は「認定心理士」資格に必要な科目を充足することである。心理専門職の資格であった「臨床心理士」受験には大学院修士課程が必要で、大学院進学の準備となる教育の意味を持つ。それ以上に四年間の大学教育を通して明確な到達目標、大学で何を学んだかを学生に自覚的に把握してもらう意味があった。心理学実験などの科目を少数の教員でどう実施するか、時間割上どう収めるか、科目の履修順序や学年配当をどうするか等々、細部を一つ一つ解決する作業が続いた。また横軸は、文化や社会に関する科目群の配置だった。当初から、大学院のない学部では心理専門職志望者は少数にとどまると予測していた。そのかわり、確固とした心理学的な素養をもって対人的職業や社会活動に取り組める人材の育成が中心になる。そのため心理学にとどまらず幅広い視点での人間理解が必要であると考えた。また多数を占める他学科から移籍の心理学以外の教員にも、専門教育の中心的担い手の役割を果たしてもらいたかった。そこで「心理・カウンセリング」と「人間関係」という科目群を置いた。この科目群を定員配分のあるコースではないという意味で「コア」と呼んだ。ほぼ全ての専門科目は学生が自由に履修できる選択科目とし、学生自身の進路にあわせてどちらかのコアに重点を置きながらも、自分にとって学びたい、必要だと思う科目を履修できるようにした。この方法を通し学生が自己の進路を自覚的に探してほしいという思いだった。専門の必修科目はただ一つ、1年次「人間科学の基礎」だけにした。これは複数教員のリレー講義で、学科の教育分野の全体像を入学直後から把握してもらい、その後の履修選択のための見取り図を提供する目的だった。この発想は、短期大学欧米文化学科の1年次「総合研究」科目へのオマージュでもある。
作業部会での検討がほぼ終了した段階で、最後の論争点となったのが学科名称である。作業過程での仮称は当初の1版は「人間関係学科」であったが、4版以降は「人間心理学科」に変えた。心理学系と言いながら心理学教員3名では、既存の心理学科と同じ名称にはできない。しかし「人間関係」では、社会慣習や組織文化の比重が重くなり、個人心理への関心が薄まる。何とか「心理」という言葉を残せないかという、作業部会後に心理学担当者を中心として話し合った意見だった。最終回の作業部会に初めてコンサルタントも呼ばれ、心理という名称を強く否定した。これに対し教員側は抵抗し、議論は延々長時間にわたった。決着がつかないまま休憩がとられ、休憩明けにコンサルタント側から妥協案として出された「人間科学科」で合意が成立した。人間科学は当時、一部大学の学部再編で新名称として使われ始めたばかりであったが、心理学やスポーツ科学、ときに教育学などの課程を含む例が多い。心理学的素養(教養)を念頭に置いてきた開設方針と合致するし、人間に関する科学なら「心理学」という言葉を使わなくとも「心理学系」としての存在を表明できると考えた。さらに新学科の学位授与も「心理学士」にした。
4. 人間科学科の誕生
こうして作業部会の提案をもとに教授会決定を経て文部科学省に申請し、人間科学科は現代経営学部と同時の2002(平成14)年4月に誕生した。学科所属教員13名のうち、新規採用は作業部会にも参加したカウンセラーと当初現代経営学部採用候補であった社会科学系教員の計2名であった。
だが発足直前の入試合格者選考会議でも激論が起きた。人間科学科開設に伴い学生募集は学科別に戻され、学科間の志願者数の偏りが表面化した。定員100名の人間科学に250名の受験生があり、何名合格者を出すのかが争点となった。定員充足のおぼつかない学科がある中、できる限り多くの合格者を認めるという大学経営的視点の意見の一方、限られた少人数の教員で定員を大きく超える入学者では授業水準の低下を招くのが必至という作業部会の教育的視点の反論が衝突した。定員の2倍近くかせめて1.3倍以内かという対立の末、結果的に164名の入学者を迎えた。他学科の合格水準よりかなり高い点数の受験生を、第二志望の学科で救済できず不合格にしたことは今も心苦しい。しかし新設学科の合格・不合格判断は将来の志望学生に重大な影響を与える。通俗的に言えば「誰でも入れる大学は、誰も入りたがらない大学になる」懸念と体験があったための苦渋の決断だった。
誕生の過程を通し、なぜ「人間」にこだわり続けたかに触れておきたい。これは直前の二つの改革構想に起源がある。一つは最初にあげた「コミュニケーション学科」で、ビジネス英語によるコミュニケーションという最初の提案に対し、むしろ前提としての「コミュニケーション能力」、さらに「人間力」の向上こそが優先される目標ではないかという意見があった。成立したコミュニケーション学科のカリキュラムでも、「ビジネス研究」、「メディア・情報研究」に並ぶ3コアの一つとして「人間・文化研究」を残せたし、専門関連科目として、非言語・言語のコミュニケーションを意識した「表現文化ゼミ」や人間理解のための「カウンセリング・ゼミ」も付け加えている。
二つ目は、検討過程で断念せざるを得ず挫折した「社会経営学部」構想がある。1999(平成11)年末に「英語英文科を廃止して、本郷校舎に社会科学系の学部を開設する」という理事長の方針を受け、すぐに短大で一般教育課程、人文学部で専門教育課程を分担して検討作業が始まった。専門科目としては二学科構成(名称未確定)で、公益企業も含む組織経営を主とするA学科とならび、個人生活を充実させるB学科が構想された。これは女子短大が立地した本郷キャンパスに受験生を送り出し続けてくれた高校との連携を強く意識した結果であった。B学科には社会心理、産業心理、臨床心理、カウンセリングなどの心理学科目やジェンダー、ライフスタイル、ホスピタリティなどの科目を想定していた。そこで目指したのは経営の前提となるのも「人間理解」だという思いだった。だが短大側の一般教育と大学側の単位数調整がつかず、検討作業の中心だった新任の経営学担当教員が退職を表明してこの構想は挫折し、急遽コンサルタントの助力による「現代経営学部」設立に向かうことになった。そしてその後に人間科学科の誕生が検討され始めたのである。
最後に回顧を通じ感じた個人的願望を記したい。誕生した人間科学科はカリキュラム改定を繰り返して人間科学部になり、また利用キャンパスの変更や統合、さらに保育・幼児教育を軸とした第二学科構想の挫折を乗り越えて現在に至っている。それは1920年代に女子歯科医専として出発しながら、敗戦後に歯学部としての大学移行に成功できず、学制改革により短期間で閉鎖に追い込まれた東洋高等学校(旧制)を経て、東洋女子短大を設立するも50年余りで閉鎖したという、繰り返し挫折を経てきた東洋学園の歴史の縮図のようでもある。それゆえ人間科学には、歯科医専に始まる他者の幸福を願う東洋学園の伝統を「人を支える人」の育成として引き継いで行ってほしい。また誕生直後の人間科学科の専任教員13名中8名が女性であった(女性比率61.5%)ことを忘れず、共学であっても「男女共同参画時代の女子教育」の担い手であることの自覚ももってほしいのである。