東洋学園大学 100周年

東洋学園史料室(Archives)の設置

広報室 東洋学園史料室 永藤欣久

東洋学園史料室 本郷1号館9階 2020年4月移転

東洋学園史料室 本郷1号館9階 2020年4月移転

東洋学園史料室 本郷1号館9階 2020年4月移転

1. 流山キャンパスの東洋学園Archivesと80年史編纂

四年制大学の構想段階から2002(平成14)年の現代経営学部、人文学部人間科学科(現人間科学部)開設まで、東洋学園を牽引した宇田正長理事長(兼学長・短期大学副学長 ※以下職名は当時)が2003年2月18日に逝去、後任の江澤雄一理事長はさらなる発展を図って新校舎建設、就学キャンパスの大胆な組み換えを推進し、2004年4月に東洋女子短期大学の募集停止を発表した。
2003年3月には伝統の短大英語英文科が本郷キャンパスを現代経営学部に譲り、流山キャンパスの欧米文化学科が英語コミュニケーション学科に改称したが2004年度の入学定員は50名まで削減されており、同年度入学の第55期生が卒業する2006年3月の閉学が確定した。1990年代初頭まで盤石に見えた女子短大の急速な衰退と、その結果としての女子教育の終焉は東洋学園存立の根幹に関わることであった。2005年3月25日には本郷新1号館建設着工を前に旧1~3号館のお別れ会が催された。
このような折、朝日新聞2005年1月24日付全国版朝刊の読者投稿欄「声」に鈴木彧子あやこ「女性の歯科医生んだ「母校」」が掲載された。

「東京の文京区に女子だけの歯科学校があったのをご存じでしょうか。東洋女子歯科医学専門学校といい、大正初期に設立されました。が、残念なことに戦後、大学に昇格できず昭和25年に閉鎖され、今では忘れ去られようとしています。
戦前は、女子が職業を持つというだけでうんぬんされる時代でした。私は昭和19年に入学し、戦時中は空襲におびえ、戦後は飢えをしのぎながら昭和23年に卒業しました。波瀾万丈の時代でしたが、その最中に学校に行かせてくれた両親と、指導してくださった恩師に感謝しつつ、今も診療を続けています。
学校は同じ地に東洋学園として存続していますが歯学部はなく、歯科医の私としては母校は失われた思いでいます。心のよりどころにしていた同窓会もみんな年老いて運営が困難になり、残った同窓会費などを中越地震の支援に寄付し、締めくくりをしました。
いずれも私の大切な歴史です。寂しさと懐かしさと不安の中で、今しみじみと歯科医としての人生を振り返って胸がいっぱいです。」※1

当時、旧制東洋女子歯科医学専門学校は設立年だけで6通りもの説があり、学生便覧と入学案内書の短く不確かな記事以外、何も分からなくなっていた。戦後二度の周年行事は新制東洋女子短期大学英語科を設置した1950(昭和25)年を周年基点としており、文系転換後、理系の旧制卒業生とは半世紀に亘り絶縁状態にあった。鈴木氏はその指定後23回生である(文部大臣指定後第23回・1948年卒/指定前=旧明華)。投稿は東洋紫苑会(歯科医専同窓会)の解散を音信不通の同窓生に伝えるためであったが、全国紙の影響力は大きく、多くの教職員がこの投稿を目にした。
投稿に心を動かされた関係者の間に、旧制・新制2校は分野こそ違え女子高等教育で一貫する東洋学園であり、旧制歯科医専OGをあらためて同窓生として迎え入れようという機運が生じた。その視座に立つと女子短大が閉学する2006年は東洋学園創立80周年であることを「発見」するのである。こうして両校の資料を収集、記録、保存し、活用するアーカイブズ活動が始まった。時間の猶予は1年。

「(略)鈴木先生の投書が東洋学園Archives設置のきっかけの一つでした。「忘れ去られようとしている」「私の大切な歴史」、この一言一言が発端になりました。女子だけの歯科学校が、後の東洋女子短期大学の源流だったこと、その短期大学が川幅を広げ、今日の東洋学園大学に発展したこと、その歩みを何らかの形で記録しておくことが、三万人を超える東洋学園の卒業生たちに対する私たちの責務だと考えました。このArchivesは決して昔を懐かしむだけの場所ではありません。先人たちが築いた豊かな過去をたずね、今日の発展を誇りに思い、そこから新時代に向うスタンスを確かなものにする、そのようなきっかけを作る場所になるよう、未来志向で作られたものです」※2

第1回Archives準備室議事録
2005年11月17日(木)13:00~15:00 流山9318室

日高 佳

日高 佳

福田 均

福田 均

出席:教員:原田規梭子(短大学長) 柴鉄也 福田均 日高佳(名誉教授)/事務局:小原芳和 藤原詠子/短大同窓会:角田早致子
各議題について次のとおり確認した。
1.設置趣旨:東洋学園がその歴史に新たな節目を迎えるのを機に、温故知新の言葉どおり、振り返るだけでなく、今後の発展に結びつけるモニュメントを設置する。
2.設置場所:Archives準備室及び隣接するロビーに設置する。
3.正式名称:東洋学園Archivesに決定した。
4.作業日程:来年3月公開を目標に作業する。
5.展示方法:写真パネル、現物展示に加えて、コンピュータ端末ディスプレーでも写真閲覧、レコード試聴、ビデオ視聴等ができるようにする。
(以下略)6.役割分担 7.Archives第二期計画 8.その他

東洋学園Archives 流山9号館 2005~2008

東洋学園Archives 流山9号館 2005~2008

当時、短期大学教務課に勤務していた筆者は福田教授が専従臨時職員の藤原さんとともに資料提供などの協力を求めに来課された際の姿、言葉を鮮明に記憶している。
構想、設計は福田教授、動画コンテンツの制作は柴教授が担った。展示施設は本郷に置くべきところ1号館建設のため流山9号館1階9126と隣接するホールとされ、僅か4ヶ月弱の準備で短大最終卒業式の2006(平成18)年3月20日に公開された。

引き続き新たな人選を経て同年5月末より2007年3月刊行を目標に記念誌企画制作プロジェクトが発足した。

発行責任者:江澤雄一(理事長)
編集責任者:一ノ渡尚道(大学学長) 原田規梭子(副学長)
プロジェクトリーダー:福田均
企画・編集:福田均 脇山怜(人文学部長) 日高佳/事務局:永藤欣久 海保美絵 関根厚志 藤原詠子
事務責任者:小原芳和/法人本部:三浦隆 宇田隆生 天坂太郎

展示計画と同様、新1号館の竣工と新施設で挙行する周年行事にセットしたタイトなスケジュールであり、初期案は「卒業生たちの母校への想いを伝え合いながら、東洋学園ファミリーの一員であることをお互いに確かめ合い、Alma Materを共有する“Old School Tie”(愛校心)を深めるもの」(福田)として卒業生の投稿をメインに据え、資料性は追求しない方針だった。これは正史に至らない記念誌としてもやや物足りず、通史は歯科医専・短大・大学を一本の川の流れに準えた日高元教授の一次稿をもとに筆者が時間の許す限り資料調査を行い、資料に基づく加筆を行わせていただいた。校正はジャパンタイムズ編集者だった脇山教授の力量に負うところが大きかった。増補した通史と使用した資料の資料編を加えてB5版200ページの予定が倍近いボリュームとなり、書名は『東洋学園八十年の歩み』、プロジェクトは同書編纂委員会になった。
このタイミングの編纂で卒業生投稿は短大が主体となった。東洋女子短期大学同窓会(戸田直子会長)の協力と大学移籍者を含む短大教員の働きかけでOG多数の寄稿を得て、初代同窓会長岩間和歌子氏ら短大1期生6名の座談を中心に厚みのあるオーラルヒストリーとなった。座談は歯科医専OG、さらに東洋学園大学同窓会(杤尾健会長)の協力で大学1期生も企画した。投稿数の確保が危ぶまれた文芸欄には短大第2代同窓会長鈴木喜久江氏が俳句でご協力下さった。
従来、戦前の文書資料は震災と戦災で焼失し、存在しないとされていたが、法人本部の協力で流山に疎開していた法人非現用文書の中から旧制時代の諸認可申請控、理事会決議録などを発見し、これらを移管したことが通史増補とその後のアーカイブズ活動の基礎となった。ほか2005年の段階で校友会誌『東洋女歯校友』合冊を図書館から、また旧制の本科・専攻科卒業証書交付原簿を発見、収集している。
『東洋学園八十年の歩み』は2007(平成19)年5月16日に挙行された創立80周年記念式典に合わせ公刊された(発行日3月31日)。

2. 本郷キャンパスの東洋学園史料室

東洋学園史料室 本郷4号館 2008~2019

東洋学園史料室 本郷4号館 2008~2019

周年行事終了後、事前の申し合わせに沿って直ちに東洋学園アーカイブズの本郷移設計画を始動した。大学アーカイブズの運営に関する知見の不足から組織(委員会)を解散してしまい、以後は広報室内で筆者がこの任にあたり、現在に至る。
既存の施設が速成、簡易な印象を与えており、大きくイメージを変える必要があると考えた。そのために必要な知識、技能は筆者が学芸員課程で学んだ内容では古く不十分であり、文京区・文京ふるさと歴史館学芸員の北田建二氏(現東洋大学井上円了記念博物館)らから展示業者を紹介していただいた。これは同年2~3月の同館企画展で本学の陶片壁画フェニックス・モザイクが取り上げられた際、年史編纂で発見した一次資料を提供し、「岩間がくれの菫花」以外の解体4作品断片を一緒に拾い集めた経験から得た繋がりだった。
『東洋学園八十年の歩み』を読んだ日本歯科大学医の博物館の樋口輝雄氏は歯科教育に関する資料と知識を惜しみなく提供して下さり、またも1年弱の作業時間ながらハード、ソフトとも確実な向上が図られることになった。学外との繋がりは与えられるだけでなく、文京区内博物館・美術館の地域貢献(文京ミュージアムネットワーク)、歯科医史研究(日本歯科医史学会)、両分野での活動と貢献が求められ、アーカイブズを能動的に運用するインセンティブとなった。移転後は日本女子大学成瀬記念館の紹介で全国大学史資料協議会東日本部会に、また別に日本医史学会にも参加し、これらの場では否応もなく研究報告、論文執筆、講演活動をすることになり、さらに新たな資料と人を得る循環を構築することになる。
医史・歯科医史両学会には東洋女子歯科医専OGとその子世代がおり、東洋学園の「復帰」に驚き、喜んで下さった。医史の川嶌眞人氏(整形外科医、母は指定後6・川嶌ミツヱ氏)、歯科医史の川上舜子氏(指定後23、義母は川上みね教授・付属医院長、子息は現東洋学園理事川上伸昭氏)らである。
歯科医専OGと遺族からの協力も本格化した。手探りの声がけから始め、やがて鈴木彧子氏、安生信子氏(指定後14)、伊藤とし子氏(指定後20)ら旧東洋紫苑会幹部と連絡がとれると、あとはそのネットワークから多数の協力者を得ることができた。接してみて、歯科医師の同窓の紐帯の強さ濃さと母校愛は想像をはるかに超えていた。
今も本学近隣で開業している和久本文枝教授(指定後3、同窓会長)、入交直重教授ら教員遺族からも協力が寄せられ、展示計画は充実していった。卒業生・旧教員との復縁も古くは馬渡房先生(理事長・短大学長)、直近は日高、福田教授らによる積年の不義理と不信を溶かす努力があって成り立ったのである。
歯科医専最後の校長で初代短大学長の馬渡一得先生(内科医)と房夫妻子女の愛知絢子氏、江澤玲子氏から宇田(馬渡・愛知・江澤)家と同家所縁の槃澗学寮(栃木寮)関係資料を恵贈いただき、以後も支援を賜った。

Archivesの直訳は(公)文書館である。その機能が脆弱な段階でこれを名乗るのを憚り、名称は敢えて古いイメージの史料室に変更した。英訳すれば元の名称に戻る。東洋学園史料室は本郷4号館6階4602(100㎡)で2008(平成20)年4月10日に開室した。キャンパス共用化で本郷は開講数の少ない3・4年のみとなり、新1号館の収容力もあって4号館5・6階が遊休化し、学外見学者には6Fラウンジと屋上庭園も提供した。開室後の活動歴は資料編に記したい。

地道に資料・情報を収集し、読み解き、資料編、通史と編纂を進め、このサイクルを複数回経た後に集積した資料を整理・保存・活用する部署(組織)を作り、活用の一環として展示に至るのが定石である。本学では逆に展示からスタートし、アーカイブズ=展示の認識が今も根強い。組織もない。今後、大学アーカイブズとして維持、発展させるのであれば、より専門性の高い人材の確保が必要であろう。


  1. 鈴木彧子「女性の歯科医生んだ「母校」」 朝日新聞 読者投稿欄「声」 2005年1月24日
    許諾番号:24-2807 朝日新聞社に無断で転載することを禁じる。
  2. 福田均「『東洋学園ストーリー』(仮題)の編纂について」 2006年7月