東洋学園大学 100周年

宇田正長理事長と一ノ渡尚道学長

東洋学園 元理事東洋学園大学 名誉教授 冨澤 暉

私は2025(令和7)年3月の誕生日で87歳となった。8月に同年となる妻とともに週2回の3時間デイ・ケアに通っている自称「終活老人」である。
本年3月、防衛医科大有志主催の「一ノ渡先生を偲ぶ会」に出席したら、東洋学園大学関係者・十数名が参加しており懐かしい方々とお話をした。その後「東洋学園100年史」編纂委員メンバーの小原芳和氏から、「宇田理事長と一ノ渡学長」の表題で一文を書かないか、とお誘いを頂いた。光栄なことなのでお引き受けした。
宇田と私は都立日比谷高校で同級、宇田と一ノ渡はともに2浪で慶應義塾大学医学部に入り、一ノ渡が在学6年時に世界一周旅行に出たため卒業した年は異なるも、同級生。
私を含め3人とも敗戦を国民学校(小学校)2年時に体験し、その前後の田舎生活で、喰えるものは何でも喰うという飢餓時代を過ごした昭和12~3年生まれである。
宇田は1968(昭和43)年以降、病院の医師を続けつつ、東洋学園の評議員・理事・理事長(含む兼・学長、副学長)として35年間勤務した4年制・東洋学園大学の産みの親であり、一ノ渡は6年間の防衛医科大学長という成果を買われて宇田に迎えられ、何と東洋学園大学学長を11年間も立派に勤め上げた人物だから、この学園の歴史に刻むべきことは当然だが、それとは別に、私個人が彼らと楽しく過ごした時間を感謝し懐かしみたい、という動機が先にあることをお赦し頂きたい。

1.宇田正長について
高校で同じクラスになったのは2年の時だけだったが、1年の時から宇田のことはよく知っており、3年でクラスがまた別れた後も、友人に代返を頼み、四谷塩町(現3丁目)の碁会所に通う遊び仲間であった。ともかく彼はスポーツ万能で、特定の運動部には属して居なかったけれども、夏休みにある千葉・勝山水泳合宿や冬の長野・菅平スキー合宿等では若い後輩たちにまで良く知られた師範格の人物であった。
勉強の方は「出来ない」のではなく「しない」人であった。当時の日比谷高は東大進学日本一と知られていたが、私どもの学年(男子定員300)の場合、現役として東大に合格したのは28名、この人たちは「勉強する、しない、に拘わらず出来る人」であった。最終的に130名ほどが東大に入ったと聞くので、確かに東大入学率日本一ではあったが、「浪人しても勉強しない人」約170名は他の大学に進む。女性(定員100名)で東大(当時出来たばかりの看護学科を除く)に進んだ人は確か一人だけであった。
男子生徒は、麹町、一橋、学芸大附属中の大手3校からは20名前後の合格者がいたが、それを除くと東京区立中学の1~2番、それに全国の名門中学卒等の人たちがひしめいていた。そうした中で、宇田は学習院中等部から合格した4人の中の一人であった。4人中の2人は現役で東大に入ったが、その一人のY君の言によると「宇田は学習院初等部ではピカイチの神童と言われていた」とのことである。
何故宇田が神童であったのか、定かではないが、宇田の祖父(母の父、即ち東洋学園創始者の宇田尚)が漢学者であったため、初等部入校前から尚・本人ではなくその高弟から漢学の手ほどきを受けていたらしい。日本国民誰もが生きるに大変だった終戦前後、幼年にして論語等を学んでいたとは、確かに珍しい話であり、中高校以降、宇田がそれを全くひけらかさなかったところがまた面白い。
宇田の実父は航空機設計技師で、宇田が生まれたばかりの1937(昭和12)年に自ら設計した飛行機の試験飛行に同乗し、墜落死されたと聞く。その父方の祖父が陸軍中将で、その中将の息子や嫁の親族等に優秀な軍人が居たことで、彼は軍人一般に好意を持っていたらしい。

1991年9月の職員旅行に同行した時の集合写真
中央が宇田正長、右は母(馬渡房)

1985(昭和60)年に私が陸上幕僚監部の人事部・補任課長に着任した頃、宇田が私の勤務場所に現れた。「東洋女子短大のある学生が自衛官の娘で、就職はスチュワーデス(客室乗務員)希望だったが、それは一寸難しいからある旅行会社の海外旅行添乗員にと、本人納得で調整済みだったところ、航空会社との別口のコネで第一希望のスチュワーデスに合格してしまった。決まったことは仕方がないとして、こういうことが多発しないようその父親に短大側に挨拶にきて貰い度、伝えて欲しい」というのが彼の用件であり、その件はその父親が「確かに一旦決まった話を変えてしまい申し訳なかった。何度でも謝りに行くつもりだ」と答えてくれたので、直ぐに解決した。当時の宇田理事長の一番大切な仕事は女子短大の卒業生を一人でも多く航空会社のスチュワーデスや旅行会社の添乗員に就職させることであったらしい。宇田は常に現実を第一とする実務家であった。
その時に宇田が「この本を読んで欲しい」と私に渡したのが「榊原主計」という追悼集であった。その榊原主計かずえという人が実は宇田の実父の兄で、かつて帝国陸軍の補任課長であったとのこと、「冨澤が同じ補任課長になったと聞いて、縁があるなと思って持ってきた」という話であった。その宇田の伯父である「榊原主計」大先輩が昭和30年から、東洋学園の評議員・常任理事・顧問として28年も勤務していた等ということは私自身が東洋学園に所属するようになってから知ったことである。先にも述べたようにこの榊原家の親戚には、私が防大生だった頃の防大幹事(副校長)で後に西方総監を務めた吉橋陸将、や三笠宮と同期の陸士48期のトップ、衣笠統合幕僚会議議長もおり、そのお二人の長男は私の後輩として防大を経て立派な自衛官になっていた。
そう云えば日比谷高校3年時に私が「防衛大を受験しようかと思っている」と話した時「俺も防大を受けようかな」と言ったのは宇田一人だけであった。それは冗談で終わったが、スポーツ万能であった宇田があの時私と共に防大に入学していたら互いにまた違った人生になっていたかも知れない。
宇田の医師としての実力を私は知らない。亡くなる1~2年前だったろうか、宇田が自分の肺癌の写真を見ながら「最近の若い医者は、ステロイドを思い切って大量に投与する度胸がないんだよ」と嘆いていたのを覚えているだけである。
東洋学園が主催した宇田の1周忌の席で同期の慶應大医学部教授が「ともかく気持ちのよい同期だったが、勉強はしなかったなあ」と言っていたのも覚えている。
宇田の専門は整形外科であったと聞く。彼は器用な男で後述する初期の「湯島会」を催した宇田の家の地下室はまるで「木工場」で、沢山の木工具と木材があった。そこで家具など色々なものを創るのが彼の趣味であったらしい。
それが関係するかどうかは知らぬが彼の整形外科での手術は一流であったと聞く。
一ノ渡も、そのお嬢さんが誤って指を切り落とす事故を起こした時、病院に連れて行かず直ぐに宇田に電話してその指導を請い、その適切な指導どおりに措置したら本当に指が元通りに直り助かった、と言い、その実力を高く評価していた。

2.一ノ渡尚道について
私が陸幕長であった時までの防衛医科大学校長は全て、慶應医学部出の方々であったが、私どもより年長であった。私の退官後2~3年が経ち「一ノ渡」という人が防衛医大の校長になったと聞いたので「どんなお方か」と自衛隊中央病院の医官や防衛医大勤務の自衛官に聞くと「人の話を能く聞く人格者」ということであった。

2004年4月、東洋学園大学の新入生歓迎会のBBQで
自ら学生の中に入って行く一ノ渡尚道

宇田の母上・馬渡房さん(学長・理事長・学園長を歴任)が亡くなった2000年夏に、私はもう女子短大の非常勤講師をしていたように思うのだが、その頃から新しい4年制大学の学長交代の話があったように思う。行方昭夫学長が4年制大学準備の段階から居られたことは確かだが、間もなく70歳になられることもあり、また新しく出来た経営学部に慶應大学等の若く偉い先生方に来て頂くためにもより若い学長が望ましい。という配慮からだろうか、その新学長候補として、私は当時防衛医大校長であった「一ノ渡」以外の人の名を聞いたことが無い。「学長には、実際に防衛医大校長の体験を持つ一ノ渡が最適任なんだよ。彼は人柄が良いんでね」と宇田が言っていたのをよく覚えている。
一ノ渡は青森県八戸付近の出身だが、八戸高校での成績は決してトップではなく「トップは防衛大で貴方の同期になったHという人物であった」と一ノ渡自身から聞いた。Hの家は経済的に大学に進学させる余裕がなかったので、一ノ渡がリーダーになって「Hに金のかからない防大を受けさせよう」という運動を進めたとも聞く。
その世話好きの一ノ渡自身は慶應医学部受験で浪人をし、本人の言葉によると「浪人生活で自分の実力がどんどんついてきたのが分かった」と言っている。私など早熟な都会っ子で「浪人すれば益々悪くなる」という予感があり防大に最低の成績で何とか逃げ込んだ怠け者だが、大器晩成型の一ノ渡はその後もそういうペースでじっくりと努力を積み重ね実力を着実に上げ、卒業直前のアマゾン旅行により卒業年次は慶應の同期生より遅れたものの、防衛医科大学校長となり、国家試験合格者の数が落ち込んだ同医大を復活させるという実績を見せた。
我々は宇田生存中から「湯島会」という名の「月一回の飲み会」を続けてきた。無論、一ノ渡は宇田が亡くなった後から参加したのだが、彼はこの会の重鎮であった。それは身体が大きく、酒に強く、いつもゆったりしている、ということでもあったが、議論が激しくなり、場が壊れそうになると落ち着いた声で場を鎮めてくれるということでもあった。
「湯島会」には多くの医者、元官僚、民間人が居たのだが、これで解散となった6年ほど前には愛知・江澤・川島(元外交官)・一ノ渡・冨澤の5人だけとなっていた。そして一ノ渡が亡くなり、最近、愛知和男も亡くなった。
宇田の母上・馬渡房さんが戦中に再婚し生れた宇田の異父妹の長女と結婚したのが愛知和男(現理事長の父)であり、次女と結婚したのが江澤雄一(前理事長)である。

3.湯島会について
宇田は友達を集めて食事したり話をするのが好きであった。高校時代に何人かの友人がその誘いに応じて当時弓町にあった家に訪ねて行ったようだが、私はその仲間に入ったことがない。その仲間には、金成とか中田(後の愛知)とか福田(後の庄司薫)とか、経済的に裕福な家の息子が多かった。金成の父親は富士電機の社長であり、中田の親は電電公社の偉い人であり、福田の家は出版社の重役と聞いていた。
福田の代表作「赤頭巾ちゃん気をつけて」のサロンの描写は、全く、当時の「うち」のものであった、と、宇田の妹(元愛知夫人)・絢子さんから聞いたことがある。福田はその後殆ど小説を書かなくなり、同時に旧友たちの前に姿を見せなくなってしまった。
私が宇田の家に出入りするようになったのは、自衛隊を退官し数年経った頃で未だ宇田の母上もご健在であったと思う。その時の宇田の家は弓町ではなく湯島であった。湯島の家の地下に集まった常連は金成と私と櫻根であった。
宇田はこの会の他に、「月一の囲碁会」をやっていた。高校時代の宇田と私は共に6~7級の腕であったが、今や「素人2~3段」と自称するようになっていた。金成と櫻根は碁をやらず、そこには財務省で造幣局長をやった松田や、財務省出身で国土庁次官をやり、長崎・十八銀行頭取となった藤原もきていた。二人とも日比谷の同級生であった。
宇田が亡くなると囲碁会は消滅してしまったが、「飲み会」の方は櫻根が連絡係となり、継続された。場所は、宇田の家から一寸離れた黒門町付近の「絵馬堂」に移し、黒門町付近も「湯島」の一部だということで会の名は、引き続き「湯島会」であった。
櫻根は大阪・中の島に当時珍しいビルを独自に保有する皮膚科医の長男で、遥々大阪から上京し祐天寺のお祖母ちゃんの家に住んでいたが、青山中学を経て日比谷に入り、いつも青山中での同級生・橋本と一緒であった。橋本も青山の産婦人科病院の次男でこの二人は高校時代卓球部にいて、仲良く二人で2浪して順天堂大医学部に進み、ここでは卓球ではなくテニスの選手として活躍したという。橋本はその後、東北大から来た麻酔科の教授に見込まれ教授とともに東北大医学部に転じ最後は東北大教授となっていた。
この「湯島会」に江澤新理事長、一ノ渡新学長が加わり、その頃東洋学園で財政教育を担当することになった松田も参加した。彼は高校で宇田と同期であり、東大・大蔵(財務)省では江澤の同期であった。江澤が筑波大付属小・中・高校、東大の時から親しかった外交官出身の川島も加わった。愛知は政治家で当時落選したり、また当選したり、と忙しかったので参加できなかったが、政治家を次男に譲ってからは参加した。若い頃から宇田・櫻根と親しく、ブラジルで日立の冷蔵庫を造っていた児玉も、パーキンソン病を抱えながら後半に参加した。
櫻根の親友・橋本は仙台にいるため、「湯島会」に来られなかったが、一ノ渡が「湯島会」に参加するようになって、一度だけ現れたことがあった。それは一ノ渡の世界一周無銭旅行時に同行した鴇田が青山中学時代、櫻根・橋本と級友であったためであった。鴇田は青山中学から青山高校に進み櫻根・橋本が順天堂大医学部に入学した時に慶應・医学部に入り、宇田、一ノ渡と一緒になっていたのである。一ノ渡・鴇田・櫻根・橋本4人ともまことに立派なお医者さんで、その若かりし頃の話に、他の「湯島会員」は聞き惚れたものであった。
「湯島会」での話題には色々あったが、宇田の家での話で一番印象に残っているのは新しく出来る大学の「学風」と「いかに大学の採算性をあげるか」の話であった。
私は、「新しい大学が求める学風とは何かを議論する必要がある。宇田の母上が、女子短大で精を込めて作り上げたのは、東京育ちの若いお嬢さん達の英語教育であったと思う。それが我が女子短大の学風だったのではないか」と述べた。それに対して宇田は、理事長としては採算性の向上こそが求められる時代だと反論した。さらに彼は、学園を預かる者として、単に守るだけでなく繁栄させる責務があり、自分の代で衰退させるわけにはいかないのだと語った。東洋学園は、創立者・宇田尚から娘の馬渡房、そして孫の宇田正長が代々受け継いできた学園であり、幸いにも運営面でも銀行借入のない優良法人であった。私は言い続けることを止めた。

2007年10月 槃澗学寮に当時の学園理事が集った。
後列左から 永井秀哉夫妻、江澤玲子、職員、
前列左から 宇田隆生、中原眞、森昭治、
冨澤暉、江澤雄一、川島純、金成弘之の各氏。
そのうち、冨澤からの4人は湯島会のメンバー。

江澤理事長と一ノ渡学長が着任したばかりの頃の問題は ①リベラル・アーツ(教養教育)か専門教育か ②流山キャンパスと本郷キャンパスの使い分け、③②に絡んで本郷新校舎の建設 の三つであったように思う。無論、④大学希望の新入生の質・量の減少という問題が並行して存在したが、① ② ③の問題は常に④の向上のためにと考えられていた。
借金なしで行われた新校舎の建設は何といっても成功であったと思う。それをリードした新理事長の功を称えたい。②の問題は①の問題により決定される。

私は防衛大学校という軍学校で「軍人たる前に紳士たれ」と育てられた人間である。それは慶應大学から英国へ留学し、後に、小泉信三慶應塾長の強い推薦で防大校長となった槙智雄が、オックスフォード大学のリベラル・エデュケーションから引用し、我々に伝えたものである。
要するに「専門家たる前に紳士たれ」ということであるが、軍人になるため防大に入学した私にとっては「そもそも紳士とは何か」と、何とも理解しがたいものであった。ただ、歳をとるにつれその言葉を多少なりと理解できるようにもなっていた。
オックスフォード大学のリベラル・エデュケーションは米国・ハーバード大学に移って、いつかリベラル・アーツと呼ばれるようになり、2000年代初めに、日本の教育界でも大流行した。
江澤新理事長は大蔵(財務)省の人ではあったが二度も外務省に出向し米英で勤務、最後は国際金融局長をつとめた日本で最もモダーンな人物であった。当時、お茶の水女子大の理事をも兼ねていた彼が東洋学園の教育方針の筆頭に「リベラル・アーツ」を置いたことは当然だと、私は思った。
しかし、防衛医科大学で国家試験の合格率アップを考え続けてきた一ノ渡学長はそう簡単に「リベラル・アーツ」に賛成できないものがあったと思う。
湯島会でもその辺りの議論が行われたと思うが、そこはファミリーが決めることだ、と外様である松田、金成、櫻根、私等は遠慮した。
一ノ渡だけは違っていたと思う。彼はこの4年制大学(特に流山)に「看護(介護)学科」を創りたいと考えていた。「それは、専門学校じゃないか」というのが江澤理事長の異見だったようである。ファミリーといっても今や宇田は居らず、愛知はまだ政治が忙しく湯島会にも来ない状況であった。しかし、専門家の一ノ渡にとっては時代の先を見て充分に成算のあることであったようで、ねばり強く江澤を説得したらしい。二人きりの長い議論の結果ようやく江澤理事長がそれを納得した時、一ノ渡は喜んで金成と私に同じ手紙を呉れた。「これで、ようやく、私の望みが適いそうです」と書いてあった。
が、それは実現せず、一ノ渡は学長を辞めた。
彼は学長を辞めた後も淡々と「湯島会」に出席した。黒門町の「絵馬亭」は谷中に移っていた。「絵馬亭」を初めに紹介した櫻根はすでに亡くなっていて、愛知・一ノ渡・江澤・金成・川島・児玉・冨澤・松田等がいたが、先にも述べたように一ノ渡はこの「湯島会」の重鎮であり、相変わらず酒を呑み、好物の海鞘ほやを注文していた。
その頃の一ノ渡は専門の精神科のことを話すこともあった。「私は精神科医ですが、私自身が重い『鬱病』なのです。時に死にたくなるのですが、隣の妻の寝顔を見て『俺は死ねない』と思い、救われています」と言っていた。彼は愛妻家だったので成程と思ったが、それに付け加えて「冨澤さん、貴方は最も『鬱』に遠い人ですね」と言われた時には答えようがなかった。
松田・金成・児玉が亡くなって、松田の家には江澤と私が弔問し、金成の葬儀には愛知と私が参加したと思う。児玉の葬儀の頃から家族葬が多くなり参加しなくなった。
一ノ渡が亡くなった話は噂で聞いていたが、「一ノ渡先生を偲ぶ会」の案内を貰ったのは亡くなって4年も経った後であった。
宇田の葬式は22年も前に、芝・増上寺の別殿で行われたが、宇田の意志で音楽葬の形がとられた。確か宇田より12歳年上の笈田敏夫が何曲ものジャズを歌った。そして短大の青野賢太郎学長が「宇田理事長は銀の匙をくわえて生まれてきた人だ」と弔辞を述べたことが忘れられない。
私は東洋学園に、還暦の頃から18~9年も勤務したのだが、その間、「湯島会」を通じて、宇田・江澤・一ノ渡の高校・大学時代の個性豊かな友人達と屈託のない議論を交わし、意外にもお互いに成長したと考えている。唯々感謝するのみである。