
はじめに
すでに私が母校東洋学園大学(以下母校、あるいは四大)を卒業してから30年近い年月が経つ。 すでに鬼籍に入られている先生方もいらっしゃるが、その点については言及していない場合もある。
あらかじめご了承いただきたい。
○入学時のこと
・入試の思い出
当時のことは今でもよく覚えている。
流山市(今や文教都市として子育て世代からの人気が高い)がどこに所在するのかもわからず、予備校の先生に勧められて志願した私は、入試当日、山手線の上野方面に乗り換えるべきところ、進行方向を間違えて品川方面に乗車するという失態を犯した。
このまま入試を受けずに浪人することも頭をよぎったが、「受験料も払ったし、やれることはやっとかないと両親に申し訳ないな」と思い直し、試験本部に電話をしたところ、急遽、本郷キャンパスで試験を受けられることとなった。試験会場〔監督を務められたのは、遊佐礼子先生と事務職員の方(その後彼女とは親しくお話しする機会に恵まれた)〕には私を含め4人の受験生がいたと記憶している。
そんな私は「試験会場を間違えて合格した杤尾君」として、まずは鮮烈に教職員の皆さんに覚えられていたらしい(後年、当時を振り返って、「話題の入学生だった」と言われた)。ちなみに、結果として一度も行ったことのない地であった流山キャンパスの行き方を確認するために入学式前日に下見に行ったのだが、その時にアテンドしてくれたのは、この記念誌編纂を担当されている小原さん(当時の教務・学生課長、その後事務次長、事務局長を歴任)だった。
・入学式
「学生諸君にとってこの大学が出会いの場―学問を通じた師との出会いの場、友情を培う場―となることを願っている」
そのように入学式で語られた宍戸寿雄先生(初代学長)のお言葉、来賓として気候変動の問題を始めとした環境問題について語られた愛知和男先生(当時前環境庁長官)のお言葉は、今でも鮮明に覚えている。
・初代の校章について
初代の校章は、大学がデザインを学生に募集し、寄せられた案〔私の同期(長く東洋学園(以下学園)に勤務された方)の案がその最も重要なエッセンスの一つとなった〕に基づき作られたものだった。
宍戸先生は、その校章を大変気に入っておられ、以後の入学式の際にその意匠の示す意味―大学は地球であり、その地球を周回する人工衛星は大学が打ち上げた卒業生である-を入学生に語られていたと伺っている。

校章については通史第4章(3節3項)にて詳述されている。母校がどういった人材を社会に輩出したいと考えていたのか、それがよくわかるシンボルマークであると思っている。私も大変気に入っていたものだった。
フェニックスを象った現在のシンボルマークに代わって久しくはあるが、初期の卒業生としては、初代のシンボルマークが何かの形で復活することはないのかな、例えば四大同窓会のシンボルマークとして使えないものかな、と思う次第である。
○学生生活
・仲間との出会い
「同好会はない、クラブはない、イベント、学園祭、体育祭もない」、文字通り「全てが一から」始まった大学であったが、そうであるが故に「大学づくりをしている」ことが実感できた。こうした課外活動を通じてできた友人、後輩は、かけがえのない仲間である。
一方で、これまで専ら女子教育(東洋女子短期大学、以下短大)を行っていた場所にエネルギーを持て余した若い男子学生が入ってきたことになる。想定以上のことが立て続けに起こり(その当事者に私もなっていたことだろう)、さぞや教職員の皆さんはお困りになったことだろうと思う。
・よき師との出会い
品行方正な学生であったとは言い難い私が母校で学ぶ楽しさを知ることができたのは、やはり専門課程に入ってからの先生との出会いが大きい。当時の教員には宍戸先生がかつて副学長を務められていた国際大学(新潟県)から加わった先生が多くいらっしゃった。
その一人が長尾悟先生だった。
3年次の「国際関係論ゼミ」で「欧州統合」を、4年次の「アメリカ政治ゼミ」で「現代的大統領制」を学んだ。その後も学びを続けた私は、大学院では宮里政玄先生(国際大学時代の長尾先生の上司に当たる)のご指導をいただく機会を得た。
長尾先生には公私ともに今も大変お世話になっている。
志半ばで別の道に進みはしたが、私にとっては恩師という言葉では足りない肉親以上の存在である。
他にも課外活動で大変お世話になった遊佐先生、佐藤泉先生、東海村の原子力発電所の見学を実現させてくださった岡本和人先生、私の心を救ってくれたヘネロソ・フローレス先生(クルトゥルハイムは私の一生の思い出の場所である)、助手時代に大変お世話になった行方昭夫学長、浅野博学部長(クールで淡々とされているが、とても温かな人柄に触れた。あのように年齢を重ねたいと、今でも目標としている)、挙げていくときりがない。
短大時代からの伝統であろうが、教職員との距離は非常に近いものがあった。こうした教育、課外活動を通じた我が母校の伝統は、今も、そしてこれからも受け継がれていくものと確信している。
よき師、よき朋輩に恵まれた4年間だった。
○同窓会について
・設立の経緯

「同窓会はどうするんだ?同窓会を作らないとダメだぞ」
卒業間近になった頃、宇田正長理事長から卒業記念委員長(初代学生会長)の鏡貴芳君にそのようにお話があった。
慶応ご出身の宇田先生は、慶応の同窓会(三田会)の存在が、いかに大学にとって重要であるかを熱く語られ、「君たちも母校の一期生として社会に出る以上、同門、後輩、そして母校のためにも同窓会を作れ。地道に活動を続けていけ」とおっしゃられたという。
順当にいけば同窓会長に就くはずの鏡君が、事務職員として学園に就職することになり、「事務は自分がやるから同窓会長を引き受けてほしい」と私に依頼したことから、同窓会長を私が引き受けることとなった。卒業式終了後、同窓会設立について出席卒業生の同意の下、会の設立と私の同窓会長就任が決まった。
私が宇田先生と初めてお話したのは、卒業してからのことではあるが、動き出すに当たり、学園の全面的なご支援をお約束いただいた。宇田先生には親しく接していただき、大変感謝している。四大設立の陣頭指揮を執られ、後の現代経営学部の設置、人文学部の学科再編など、多事多難な時期、そして「大学もこれから」という時期にこの世を去られた。今思い返してもとても残念である。
改めてご冥福をお祈り申し上げたい。
同窓会と学園、大学の窓口は学生部(現学生支援センター)が担当することとなった。
宇田先生、発足当時の学生部長であった宮地治先生、学生部の職員の方々をはじめとした事務職員の皆さん、多くの方々のご協力、ご支援に支えられながらなんとか初期の運営を維持できた。
また、設立の頃から今日に至るまで、とくに加村さん(現学生支援センター部長)には大変お世話になっている。先輩を持たない私どもからすれば、加村さんは先輩ともいえる存在である。学園、大学と同窓会は、異なる組織であるが故に時にぎくしゃくすることも当然あったが、それでも友好的な関係が築けているのは加村さんのおかげである。
・現在の運営状況
初期の運営には苦労が付き物で、それをこの場で記すことは控える。当初は鏡君に加えて学園に就職した母校卒業の事務職員が事務を担当し、運営を行っていたが、学園の業務との兼務で困難を強いたものと思う。
そのため、事務スタッフの採用はかなり早い段階から検討を進めていた。また、採用する際には短大同窓会の事務を担当されていた方に大変親切に助言をいただいた。おかげさまで2001年には卒業生をスタッフとして採用、その後複数名採用し、現在の事務運営はそのスタッフによって行われている。
とくに2019年末から続く「コロナ禍」の際には活動そのものが止まってしまうような危機的状況に陥ってもおかしくなかった。その困難な時期を乗り越えられたのは、スタッフの存在抜きには語れない。初めて加わってくれた橋本さん、現在の運営の中心メンバーである榊原さん、小澤さんには改めて感謝とお礼を申し上げたい。私が学園、大学にあれこれと物申せるのは、スタッフのおかげである。
また、世代交代を見据えて、幸いなことに若い世代の卒業生〔箕輪さん、大沼さん(記念誌編纂委員会委員長の今井克佳先生のゼミ門下生と伺った)〕にも加わっていただけた。今後、スムーズに交代が進むよう図っていく所存である。
・同窓会の業務

同窓会の主旨は、「卒業生間、卒業生と在学生、卒業生と教職員、教職員OB間の親睦、および母校の後援」である。
一方で、「それでは何を行うのか」という点については、当然、人的資源と予算に影響される。当初から現在まで一貫して意識しているのは「身の丈に合った運営」である。それが「年一回の会報発行と定期的な異動調査の実施」である。
とりわけ、同窓会の主旨を果たすために最も重要な業務は「同窓会名簿の管理」である。 同窓会が名簿管理を行わないのであれば、その存在意義はない。名簿管理をいかに充実させるか、個人情報の保護、セキュリティ体制の維持、更新を徹底させることに常に心を砕き、運営を図っている。
異動調査については比較的初期の段階から同窓会のHPを立ち上げ、「異動調査フォーム」を設置した(このコラムの最後にURLを記載しているので、これまで回答されていない方は、是非ともご回答をお願いしたい)。加えて、学園とは「名簿管理についての覚書」を締結し、それに基づき同窓会名簿の利用についての手続きを明文化、また学園、大学が把握している卒業生情報の適宜提供をいただいている。
なお、覚書締結に当たっては、宇田隆生さん(現法人本部事務局長・当時企画開発本部部長)にご尽力いただいた。また、フォーム設置には大学メディアセンターに多大なるご支援を継続していただいていることを合わせて記しておきたい。
・奨学金の設置
奨学金の設置は同窓会にとっては悲願であった。
大学教職員からも内々に奨学金の設置を求める話はかなり以前からあったが、当時の「年会費1万円×その年の卒業生数」での運営では、とてもではないが運営できる状況ではなかった。
また、最初期の卒業生でさえ現在大半が50代前半である。晩婚化が進み、子育て時期が壮年期後半にまで及び(まさに私がその一人である)、いわゆる「就職氷河期」に社会に出た卒業生が大半を占める。善意の寄付をお寄せいただける状況ではないことは自明である。
そうした打診が来るたびに「同窓会の年間予算がいかほどであるかをご存じの教職員は、一体どの程度いるのであろうか。どの程度の卒業生が寄付をできるほどの余裕を持っていると考えているのだろうか」と思ったものである。
言うまでもないことではあるが、同窓会の運営はボランティアで行うものではない。経費をかけて行うもの、その経費は同窓会費で賄うものである。同窓会の運営には経費が発生するのである。
終身会費1万円で発足した同窓会であるが、2010年代に入ると、「会費の見直し」が必要になりつつある状況にあったのは確かであった。会報を卒業生全員に送るということは、毎年通信費コストが確実に一期数百名分増えることを意味する。ウェブサイト構築やセキュリティ対策など、より専門性を求められる分野については外注せざるを得ない(すでにそうした分野は外注している)。

将来的な会費の見直しについては、発足当初に宇田先生からも「いずれは上げないといけない時期が来るだろうから、その際には話をしよう」ともおっしゃっていただいてはいた。
その状況で発生したのが「コロナ禍」であった。
今日に至るまで社会を揺るがす事件、天災は幾度となく起こっているが、コロナ禍ほど我々の、ひいては世界の市井の人々の生活に大きな影響を与えたものはなかった。そのため、同窓会としては在学生を支援するため、発足以来繰り越してきた資産より2020年度、2021年度と連続して母校に寄付を行った。また、江澤雄一先生(学園長:写真左側)、愛知太郎先生(理事長:写真右側)に会費見直しへのご理解、ご協力をいただき、2022年度より実現させることができた。
これにより、「成業の見込みはあるが、経済的に困窮状況にある在学生」を主たる対象として、給付型の奨学金:「東洋学園大学同窓会奨学金」の設置を実現させることができた。 ささやかではあるが、今後とも母校在学生のために役立つものとなると確信している。
・同窓会の課題:なすべきことと世代交代
同窓会としてすべきことは多々あろうかと思う。
在学生の就職支援に同窓会名簿を活用いただくことは、これまでにも提案していることではあるが、未だ実現には至っていない。
卒業生間の交流の支援とはいっても、具体的に制度化していることが多くあるわけではない。委員会やクラブ、サークルなどのOBで活発に活動している団体はあるとは聞いているが、連携がそこまで取れているわけでもない。教職員、教職員OBとの親睦といっても具体的な実績(過去に退職された先生を囲む会、ご逝去された先生の偲ぶ会の開催に協力)が多くあるわけではない。

会費の見直しでは追いつかないほどに物価は高騰し、通信費等のコスト抑制が求められる状況である。今後は会報発行についても、例えば名簿異動調査対象期のみに紙ベースの会報を発行するなどして部数を減らし、よりHPを活用するなどしていく必要がある。まだまだすべきことは多々あるが、実現できることには限界もある。
たとえるのであれば、同窓会はスマートフォンであり、実施している事業(名簿管理、会報発行、奨学金)はアプリである。今後どのようなアプリを増やせるかはそれをできる人材と予算にかかっている。
その点において、今後の最重要課題は世代交代である。幸いなことに跡を引き継いでくれる人材も出てきている。だが、彼らだけではない。もっと人材が必要である。この記念誌をお読みいただいた卒業生の中で「我こそは!」という卒業生がいらっしゃるのであれば、是非お声をかけていただきたい。次代の運営を担う人材を我々は引き続き求めている。
○一ノ渡尚道学長との思い出:東洋学園ホームカミング・デーの実現
・「卒業生を大切にしない大学に未来はない」
さて、ここからは記念誌にはふさわしくない内容となるだろうが、一ノ渡先生との思い出を語る上ではどうしても申し上げざるを得ない。
「学園、大学は卒業生を大切にしていない」
「卒業生を大切にしない大学に未来はない」
そのように学園に向けてはっきりと口にされた初めての先生が私にとっては一ノ渡先生だった。
確かに学園は、協力はしてくれる。大学には心ある教職員もおられる。「卒業生を大切にしなくてはいけない」とも語られる。
一方で、首をかしげるような心無い対応を取られることが多々ある。運営には苦労が付いて回ったが、その根底にあるのは、「学園の対応はちぐはぐ」、「果たして学園は、卒業生を大切にするつもりがあるのだろうか」との思いだった。
意外ではあったが、短大の卒業生、教職員ですら「卒業生を大切にしないのが東洋学園の伝統」とおっしゃる方がおられる。
「短大と四大卒業生でサービスに差をつけるのは当然、といった考えを持つ人がいる」と面と向かって言われたこともある。
2006年の80周年記念事業の際には「いくらなんでもこれはおかしいのではないか」と言わざるを得ない対応が続いたこと(本当にひどいものであったと言わざるを得ない)もあり、学園には苦情を強く申し上げたこともあった。
それをはっきりと「学園の対応は間違っている」とおっしゃったのが一ノ渡先生であった。
同窓会の大切さを熱く語られた。
卒業生を大事にするようにと常に語られていた。
そして、間違っていることは「間違っている」と声に出された。
先生が学長に就任されて以降、徐々にではあるが学園の対応に変化が見られたことを実感した。
・「東洋学園ホームカミング・デー」の実現
「全ての東洋学園の卒業生を対象とした行事として、ホームカミング・デーを開催してはいかがか」と私が提案したのは2009年のことであった。短大同窓会懇親会に招かれた時のことである。招待された中には学長を始めとした学園関係者の方も多くいらっしゃった。その際に依頼されたスピーチで以下のように申し上げた。
「東洋学園には長い歴史がある。東洋女子歯科医学専門学校、東洋女子短期大学、東洋学園大学、我々は全て『東洋学園の卒業生』である。そうであるならば、全ての卒業生を対象とした学園、大学主催の卒業行事、『オール東洋学園のホームカミング・デー』を開催してはどうか」と。

その際先生がその場で「すぐにでも実現するよう動きます」とお答えになり、早くもその翌年に実現したのが「東洋学園ホームカミング・デー」だった。開催に向けては原田規梭子先生(短大学長、四大副学長、学長を歴任)が陣頭に立たれ、両同窓会、学内各部署との調整に奔走された。
また、ホームカミング・デー当日は、短大同窓会と共同で物品販売を行い、得られた利益でベンチを寄付させていただいた(1号館屋上に設置)。
まさか翌年に実現するとは思いもしなかった。「時代は変わったな」と実感した大きな出来事の一つであった。
その後ホームカミング・デーは不定期ではあるが開催されている。
「ホームカミング・デーは、学園、大学主催の卒業生行事。毎年とは言わない、オリンピックイヤーでもいい。学園にとっても大切な行事として、継続的に開催してほしい」というのが同窓会としての願いである。
コロナ禍もあり、100周年に向けての様々な計画がおそらくは断念せざるを得なかったものと思う。100周年が今後のホームカミング・デーのよりよいあり方を考えるきっかけとなればと願っている。
・一ノ渡先生を偲んで
先生がすでに鬼籍に入られて数年が経つ。
コロナ禍もあり、お別れができていなかったことが心残りであったが、先日(2025年2月)前任校の防衛医科大学校の皆さんが中心となって偲ぶ会が開かれた。私も学生支援課のご厚意(私と先生との絆を覚えていてくださる方がいらして本当に感謝している)でお誘いいただき、お別れの挨拶ができた。
私どもにしてみると、先生との出会いは大きな転機となった。
100周年を一緒に見届けていただけなかったことは誠に残念ではあるが、今もいただいた言葉を励みにさせていただいている。
この場をお借りして心よりお礼を申し上げたい。
○終わりに
2026年は私が大学を卒業して30年となる。私も50歳をすでに超えた。長い年月が経った。少子化は今後もますます進んでいく。良いニュースより悪いニュースの方が多いことだろう。大学の抱える課題は多岐にわたろう。
だからこそ歴代学長の語られた言葉―「大学は地球であり、その地球を周回する人工衛星は大学が打ち上げた卒業生である」(宍戸学長)「卒業生こそが大学の宝」(一ノ渡学長)―こうした言葉が響く大学であって欲しいと願っている。
我々卒業生も微力ではあるが力になりたい。
最後に記念誌への寄稿をご依頼くださった100周年記念誌編纂委員会の先生方、小原さん。
遅筆でご迷惑をおかけしたが、助言をいただき、おかげさまで原稿を書き上げることができた。
誠にありがとうございました。
ここにお礼を申し上げ、筆を置くこととしたい。