
1992年4月、千葉県流山市に東洋学園大学が開学しました。私は、人文学部英米言語学科の第一期生として、その門を叩きました。東洋女子歯科医学専門学校からスタートし、東洋女子短期大学として、多くの卒業生を送り出してきた本学が、四年制大学として新たな一歩を踏み出した、まさに歴史的な転換点でした。
当時の流山キャンパスは、テレビドラマで見るような賑やかな大学像とは程遠く、開学したばかりの静寂に包まれていました。真新しい校舎に響く自分たちの足音に、これから始まる歴史の重みを感じたのを覚えています。近隣の方々からも「東洋学園大学はこれからどんな大学になるんだろうね」と期待を込めて声をかけられました。その眼差しは、私たち学生自身の「自分たちでこの大学のカラーを創っていくんだ」という気概にも似ていました。
先輩という存在がいないからこそ、何事も自分たちで調べ、一から形にする。その開拓者精神は、私たちの私生活にも色濃く反映されていました。特に顕著だったのは、海外への情熱です。友人たちはツアーに頼らない手配旅行で次々と世界へ飛び出していきました。私が初めて海外へ行ったのは、高校時代。その時は添乗員付きのツアーでしたが、大学で自由を謳歌する友人たちの背中に触発され、私も自らチケットを手に異国の地を歩きたいと強く思うようになりました。
高校時代の友人と企画したタイ・バンコクへの旅は、今思い出しても笑いの絶えない珍道中でしたが、それが私の旅の原点となりました。その後一緒に行った友人は、海外生活を志してオーストラリアへワーキングホリデーに。私の方は海外への熱は、大学卒業した後も続き、近隣の国の他、フランスやオーストラリアで1ヶ月間アパートを借りて生活したり、インドでのホームステイを経験したりと、旅を重ねました。現地の文化に深く入り込み、そこで新たな友人を得る経験は、外の世界を知ると同時に、日本の良さを再確認する貴重な機会となりました。

大学時代の話に戻りましょう。当時、大学の教壇に立たれていたのは、各分野の第一線で活躍されてきた素晴らしい先生方でした。同時通訳の最前線での苦労話や、海外生活のリアルな物語、留学生と日本人学生の意識の違いなど、先生方が肌で感じてこられたお話は、私たちの視野をどこまでも広げてくれました。4年生で選んだ浅野博教授のゼミでは、物静かな先生が最後の一瞬まで教え子をそっと気にかけてくださる温かさに触れ、その慈しみは今も私の心の支えとなっています。
卒業後、英語を活かす仕事を経て、私は司会者(MC)としての道を歩み始めました。月日は流れ、母校は本郷キャンパスへと統合されましたが、信じられないような不思議な縁が舞い込みました。かつての東洋学園大学流山キャンパス跡地に移転した、流山市立南流山中学校の開校式典。その司会依頼が、私が卒業生だと知らないイベント会社から届いたのです。
式典には愛知太郎理事長も出席されており、一期生の私がマイクを握っていることに驚き、深く喜んでくださいました。この再会を機に、現在は100周年に向けたイベント、卒業式・入学式の司会など、MCとして、そして卒業生として、母校の節目に関わらせていただいています。
先日、その100周年記念イベントの撮影で、再び流山キャンパスの跡地、南流山中学校を訪れました。かつての静かな校内には、今や中学生たちの明るい笑い声が響き渡り、グラウンドでは野球やサッカーに励む活気ある時間が流れていました。周辺には住宅やスーパーが立ち並び、街はこの30年で劇的な変化を遂げています。しかし、あの赤いレンガの建物だけは、開学当時と変わらぬ佇まいでそこにありました。その姿に、懐かしさと共に積み重ねられた歳月の重みを感じ、胸が熱くなりました。
2026年、東洋学園は100周年を迎えます。
辻中豊学長は「東洋学園大学ほど、面倒見の良い大学はない。いつでも大学は君たちを待っている」とおっしゃっています。その言葉は、卒業生への慈しみであると同時に、「学びたいという意欲があるなら、大学はいつでもその門戸を開いている。学びを止める必要はない」という、力強い励ましのように私には響きました。
その言葉通り、卒業した私は司会という形で母校へ戻ることができました。第一期生として、そして100周年という歴史的な節目の年に立ち会えることを、心から光栄に感じています。 かつてこの場所で学んだ「自彊不息(じきょうやまず)」。自ら努めて励み、休むことがない――その精神を胸に、私もこれからの人生に刻まれる新たな1ページを、一期生らしく、模索し続けたいと思います。