東洋学園大学 100周年

東洋学園大学と本郷界隈

東洋学園大学 元 図書館長現代経営学部 教授 北田敬子

東京都文京区は「文京」を「ふみのみやこ」と読むことで、文化の香り高く、多数の学校・教育機関が存在する地域としての矜持を示してきた。区の資料によれば国立、私立を問わず19の大学・短期大学がある。そのうち本郷を住所に含める大学は順天堂大学(文京区本郷2-1-1)、東京大学(文京区本郷7-3-1)、そして東洋学園大学(文京区本郷1-26-3)の三つである。かつて本郷の東洋女子短期大学英語英文科を改組転換して四年制大学新学部を設置する時、名称を巡って、活発な話し合いの行われたことがある。議論百出の中、「本郷大学はどうでしょう?」という意見も出た。しかし、当時は千葉県流山市に大学の本拠地があった。後に校歌が修正されて流山・本郷両キャンパスが歌詞に織り込まれるようになるとは言え、局所的な命名はそぐわなかった。やがて本郷にキャンパスが集約されて東洋学園大学は再び変貌を遂げた。流山の鮮明な記憶があればこそ、本郷に100年間根を張る東洋学園の土地との結びつきを振り返る好機ではないだろうか。

1.東洋学園の所在地

東洋学園大学は「都心の大学」を標榜する。地図を俯瞰すると、本郷通り、外堀通り、白山通り、春日通りの囲む井桁の中に壱岐坂、新壱岐坂が走り、その中央に東洋学園大学がある。だが、学生には華やかな都心で学んでいるという意識はあまりなさそうである。本郷三丁目から来る学生たちも水道橋から来る学生たちも、幹線道路を一歩外れれば、下町の雰囲気漂う路地を辿って大学に辿り着く。良くも悪くも「東京のど真ん中」の印象ではない。それにもかかわらず、本郷がその特性を発揮するのは地理が歴史や文化と結びついたときである。

大学の4・5号館東側の道は通称「学者通り」と呼ばれてきた。明治・大正・昭和時代には主に東京(帝国)大学に勤める教授たちの住まいがあったからだ。今では次々に昔の建造物は取り壊され、スマートなビルやマンションに建て替わっている。近年、医療機器メーカー「フクダ電子」本社が新社屋を構えた。本郷が(東京)大学病院の近くであることから医療機器製造を地場産業のひとつとしてきた流れの中で見ると、その立地には故がある。また、通りの中ほどには日本基督教団弓町本郷教会(1886年開設、教会堂は1920年代の建造物)があり、それと向かい合うように樹齢700年の大楠が聳えている。楠は隣接するマンションの3階にまで届こうかという大木である。幹にはしめ縄が巻かれ紙垂(しで)が結ばれている。猛暑の日でもこの大楠の下を通ると木陰に涼風が流れる。700年ここに生い茂って来た大樹がある小径。新旧並び立つこの辺りの静けさは特筆に値する。

2.春日通りを渡って

「学者通り」を抜け、春日通りを北に渡る途中、右手に東京スカイツリーが見える。春日通りは湯島を通って上野不忍池の東を走り、厩橋で隅田川を渡る道路だ。本郷台は山の手と下町の境界をなす土地だとも言える。春日通りを渡った先の道路を直進すると左手には「文京区ふるさと歴史館」がある。この土地にまつわる意欲的な企画展を行い、常設展では文京区ゆかりの文人墨客らを紹介している。その中心に樋口一葉、森鴎外、夏目漱石、石川啄木、宮沢賢治らの名があることは言うまでもない。頒布・配布される地図や資料も充実しているので、地域探索をする手掛かりが得られる。改めて本郷界隈を歩き、調べてみようと思う向きには訪れて欲しい拠点である。

「文京区ふるさと歴史館」を出ると、長屋塀(かつて使用人や書生が中に住んだ分厚い塀)と呼ばれる門構えの家(諸井邸)がある。古都の街ならいざ知らず、都内に今もこのような建造物が存在することには驚かされる。そのはす向かいには「真砂中央図書館」。町名としては消えてしまったものの、図書館に漱石の小説を彷彿とさせるこの名称が残ることは銘記しておきたい。文京区民のみならず通勤・通学者にも開放されているので、大学図書館と併せて利用してみるのも良いかもしれない。ちなみに東洋学園大学に最も近い都バスの停留所が「真砂坂上」である。

その道の行き止まりに「炭団(たどん)坂」がある。坂の手前に「坪内逍遥旧居・常盤会跡」の史跡プレートが立てられている。坪内逍遥の銅像は早稲田大学の演劇博物館前に鎮座するものが有名だが、彼は本郷に住んで創作活動を行った。屋敷跡は逍遥の転居後、1887(明治20)年に旧伊予藩主久松氏の育英事業として、「常磐会」という寄宿舎になった。正岡子規も1888(明治21)年から3年余りここに入っていたという。―「文京区教育委員会」による2001(平成13)年のプレート記載を参照―

3.炭団坂から菊坂下道、一葉旧居跡へ

「炭団坂」は昔雨が降るとぬかるんで、人馬共に炭団のような泥んこになったことから命名されたとの説がある。今時の学生には「炭団」と言っても通じないことが多い。春日通りにある炭屋に、今も炭団が並べられているので、学生と付近を探索した折には必ずその実物を見てもらった。炭団坂の階段の上に立つと本郷がくっきりと段差のある台地と低地からなっているのがよく分かる。見渡せばぎっしり建て込んだ住宅の屋根やマンションが拡がるばかりだけれど、ぽっかり開けた空間に風が吹き渡る。手すり付きの長い階段を降りた先に「菊坂下道」が通っている。知る人ぞ知る路地である。路地を辿るとなかほどに人一人がやっと通れるくらいの石畳の小径がある。その奥に手押しポンプの井戸がある。以前にはその脇にかつて樋口一葉が居を構えていた場所だと記されていた。見物人が増えたせいか、現在の住人に配慮してプレートは外された。その先には崖下に三階建の木造家屋が建ち、苔むした石段を登ると通り道の先に屋根の付いた簡素な門がある。この場所の古色蒼然たる風情はいつ行ってみても格別である。

それをくぐって外に出たところを「鐙(あぶみ)坂」という。解説プレートによれば、鐙坂脇には国語学者金田一京助一家が住んでいた。鐙とは乗馬した人の脚を支える沓載せのこと。その形状に似ているところからこう命名されたという。この坂を下りた先には以前には「菊水湯」があった。それが閉じるときにはTVでも報道されていた。今では菊坂下道との角に風呂屋の正面屋根瓦が記念碑代わりに設置されている。

4.菊坂

下道から建物の間に築かれた石段を上ると、菊坂に出る。その昔、辺りには菊畑があったという。坂と言えるかどうかの緩やかな傾斜の通りで目に付くのはやはり「伊勢屋質店」とその土蔵だろう。赤貧洗うがごとき樋口一葉が、衣替えの季節ごとに通ったというその店は、今では跡見学園が保存・管理する史跡「旧伊勢屋質店(菊坂跡見塾)」 になっている。週末の開館日に訪れると質屋だった日本家屋の内部を隅々まで見学することができる。質店を過ぎて菊坂を本郷通りに向かって歩いて行くと、左手に曹洞宗長泉寺への参道がある。山門の石段を上り詰めて境内に入ったところで振り返れば白山通り方面に、文京区役所(シビックセンター)の高層ビルとそれを取り巻く街の様子が眺められる。谷の底(菊坂下道)から丘の上に出たことが実感できる。付近には多くの文学者が投宿したことを記す「菊富士ホテル」の石碑が建っていることにも留意したい。果たして何人の名を知っているだろうか?

菊坂と本郷通りの接する手前、細い路地に「金魚坂」への入り口がある。江戸時代から続く金魚の卸問屋である。生簀にも水槽にもありとあらゆる種類の金魚が泳いでおり、誰でも静かに見学することは許されている。ひと頃は敷地内の池で金魚すくいや釣りも楽しめた。二階建てのカフェ・レストランには人の出入りが絶えない。そこから本郷通りへ出て東京大学の正門の方向へ少し歩くと法真寺に行き当たる。ここは寺の脇にある「樋口一葉ゆかりの桜木の宿」(一葉幼少時、1876(明治9)年から1881年まで住んだ家の跡地)でも有名で、毎年11月23日の命日には本堂で「一葉忌」が営まれる。

5.本郷大横丁通り

ざっと回っただけでも様々な街の顔を見て歩ける。だが変貌も激しい。本郷三丁目交差点につい先ごろまであった「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と言われた小間物店が遂に閉じた。それでも一筋表通りを離れれば昔ながらの商店街も健在だ。本郷通りからりそな銀行の角を西に壱岐坂へ曲がると、日常生活に必要な物はほぼ何でも揃う本郷大横丁通りとなる。東洋学園大学の1号館と4・5号館に挟まれた壱岐坂は「壱岐殿坂」とも呼ばれ、江戸時代に近隣に在った武家屋敷から命名されたと史跡プレートにはある。毎日このプレートの前を通る学生たちの何人がその名の由来に興味を持っているだろうか。

大横丁通りでは毎年夏に「大横丁ビヤガーデン」が開かれる。通りを一日車両通行止めにして、出店とテーブルが並べられ、近隣の人たちが寄り集う。商店会が中心となって運営に当たり、東洋学園からもゼミ単位で学生たちが応援に出ることもある。大学祭とは一味違う地元のイベントに学生たち、また大学職員が混じっている姿には実に心和むものがあった。秋には学生が地元の神社(春日通りの櫻木神社と新壱岐坂近くの三河神社)の祭礼に出てみこしを担ぐのも恒例だった。逆に東洋学園大学で各種のイベントや外国人学生たちの訪問がある時などに、地元の伝統芸能「壱岐坂太鼓」の一団や当地出身の太鼓のソリストを招いて威勢の良い響きを聞かせてもらうといった交流も続いている。

このような地の利を生かし、本学の英語教員が3名ずつ出て各回20名の区民受講生を対象に、公益財団法人文京アカデミー主催「外国人おもてなし英会話講座」(文京アカデミア講座)を数年間にわたって開いたこともある。週1度の8回にわたる講座では英語でのあいさつや自己紹介、道案内・電車の乗り換え、日本の伝統や文化、国際交流、観光スポット紹介などをめぐって、外国人観光客をもてなす場面で使える英会話を学ぶことを実践した。最終回には街へ出て、先に述べた本郷界隈を受講生と大学の外国人インターン、そして講師一同がフィールドワークするのが恒例だった。2020年の東京オリンピックを念頭に置いた講座であったものの、コロナ感染者拡大を防ぐべく急遽講座が取りやめになったのは残念だった。

6.おわりに

東洋学園と文京区本郷という土地には深い縁がある。この土地から巣立って行った学生たち、この場所で教育・研究に携わった教員、学園を支える業務を続けた職員にとって、「本郷」は「故郷」にも似た響きを持つ地名と言えないだろうか。そこにいた時には気づかなかったけれど、離れてみて初めてその意味と価値を実感するところ、本郷界隈。蛇足ながら、私は在職中に大横丁通りのオンラインマップを作成し続けていた。誠に拙いものではあったけれど、商店街やあたりの景観の写真を撮りためるうち「大学のある横丁・横丁にある大学」というユニークな東洋学園大学の在り方を実感した。変わり続けるものと百年経っても変わらないものの狭間で、土地に根差して生きることの大切さを若者たちにも知ってほしい。さらにはこの土地からの新たな発信を担っていってほしいと思う。