常設展Permanent Exhibition

展示概要

Ⅰ.

東洋学園創立者・
宇田尚と後継者

教育者、東洋思想研究者、実業家。不遇から身を起こした自らの半生により、校長として「自彊(強)不息じきょうやまず」の精神を説き、理事長として東洋学園の礎を築きました。父の宇田廉平(1840-1906)は現在の千葉県館山市出身、六浦藩(横浜市)大参事、新政府公議所(集議院)に出仕して明治前半は槃澗書屋はんかんしょおく(栃木県鹿沼市)に退耕、後に旧制第一高等中学校(第一高等学校)教授。

第二次世界大戦後に理事長職を継いだ夫人の宇田愛(1883-1982)は明治期の日本女子大学で英文学を学んだキリスト者として英語教育を導入し、戦災と戦後の混乱で行き詰った東洋学園の再生と国際化に道を開きました。ほか愛知揆一(1907~1973 外務、大蔵大臣等)ら歴代の理事長、校長、学長を紹介します。

宇田尚

● 創立者・宇田尚
うだひさし
1881-1968
号槃山…ばんざん

Ⅱ.

創立の前夜

東洋女子歯科医学専門学校の前身である明華女子歯科医学専門学校(1917-26)が講習所、各種学校を経て高等教育機関である旧制専門学校の認可を受け、最終ステップの文部大臣指定で陥った混乱と挫折に至る経緯を振り返り、その背景である近代歯科医学教育の発達、女子教育の普及、大正自由主義や関東大震災など、当時の社会が東洋学園の誕生に及ぼした影響について解説します。

Ⅲ.

東洋女子歯科医学
専門学校の創立

1926(大正15)年9月10日、所轄官庁(文部省)の勧めにより、学生、父兄会の支持を得た宇田尚が主宰する新たな理事会が催され、新体制が発足しました。10月11日、東洋女子歯科医学専門学校に名称変更。11月4日、財務の改善と校風刷新に向けた努力を認められ、歯科教育界では女子校初の文部大臣指定認可を受けました。当時の制度で指定校の卒業生は国の検定試験を要さず医師・歯科医師免許を交付され、指定の有無は学校、学生双方にとって死活問題でした。1950(昭和25)年までこの日が創立記念日とされ、今日も周年基点となっています。11月5日、指定後第1回卒業式を挙行しました。

このほか1928(昭和3)年に竣工した新校舎(第3代)・付属医院・寄宿舎、目白、王子などに点在した郊外寄宿舎、教育スタッフ、当時の歯科用器具・器械の資料を展示しています。

Ⅳ.

戦前の学生生活・
戦時下の学校

歯科教育のカリキュラム、月例試演会、新入生歓迎会、器械祭、卒業記念旅行などの行事、最盛期には入学者の27%を占めた海外、外地からの留学生に関する資料を紹介します。

戦争の拡大に連れ、国の指導で学生自治組織の校友会は報国会、報国隊へと改編、自衛防空組織の特設防護団が組織され、勤労奉仕が課せられました。軍国色が深まる学生生活は校友会誌の表紙の変化からも感じ取れます。

 

● 露出展示 戦前の歯科用器具・器械

Ⅴ.

空襲被災と流転/
占領期の学制・
医療改革

東洋女子歯科医専は1945(昭和20)年4月13~14日の第2回大空襲で本郷の全施設を焼失しました。「国家ノ現状ヲ観ル時ハ其ノ困難ニ耐ヘ不撓不屈之レヲ継續スル」決意の下、栃木県槃澗学寮への疎開、湯島聖堂分教室を経て、1946年4月から千葉県千葉郡津田沼町大久保の津田沼校舎(旧軍施設)での教育を開始しました。

占領政策に基づく医療改革、学制改革によって高等教育は大学に一本化されることになりましたが、東洋女子歯科医専は旧制大学への昇格を認められず、代替として1947年に特設旧制東洋高等学校(理科乙類、共学)を設置し、1949年にはいち早く歯科衛生士学校も開校しましたが、資金不足のため1950年の卒業生をもって歯科医師、歯科衛生士の養成、医学教育教養課程の全教育を終了しました。

Ⅵ.

新制・東洋女子短期大学の開学

1949(昭和24)年10月2日、法人は英語教育を目的とする新制短期大学の設置を決議、文系転換は宇田愛理事長が下した決断でした。2名の専任教員は宇田愛個人の人脈に頼って招聘されました。

東洋女子短期大学英語科は本郷に再建した木造校舎(第4代)で1950年5月1日開学、入学は定員60名に対し25名でした。この日が現行の創立記念日となります。短期大学は大学基準を満たすことが困難な旧制専門学校がアメリカのジュニア・カレッジをモデルとする2年制大学に改組したもので、始まって間もない単線型教育の原則から逸脱する存在は「当分の間」とされていました。初期10年は困難な経営が続きました。

Ⅶ.

高度経済成長と短期大学の発展/
フェニックス・モザイク

日本の経済成長とともに1959(昭和34)年度入試から入学志願者が顕著な伸びを示し始め、東洋女子短大の規模拡大は平成のバブル崩壊まで続きます。本学は教養教育と実務教育の強弱をバランス良く配したコース編成を組み、航空会社客室乗務員の就職に強い短大との評価を高めていきました。

短大開学10周年を期して新校舎(第5代)の建設を計画し、1961年2月に第1期工事が竣工しました。短大同窓会の寄付により外壁には学園のシンボルとして建築家・今井兼次のデザイン、制作指導による陶片壁画「岩間がくれの菫花」など5作品(総称フェニックス・モザイク)が飾られました。1964年の第1回学生祭で学生歌(校歌)を制定、学生祭は第3回でフェニックス祭と命名されました。64年の学校教育法改正で短期大学は恒久的制度となり、本学は戦前とは全く異なる姿で戦後復興を遂げました。

Ⅷ.

流山キャンパスと
東洋学園大学

資金不足から国有地だった津田沼校舎の土地を取得できず撤退した後、大学設置基準を満たす校地の確保は本学の悲願でした。喫緊の課題である志願者急増への対応と手狭な本郷校舎での体育実技の支障を解消するため、1967(昭和42)年9月、千葉県流山市に流山校舎(キャンパス)を開設し、1982年に欧米文化学科を設置しました。18歳人口が205万人を記録した1992(平成4)年4月、流山キャンパスに共学の東洋学園大学を開学、短大の英語英文科(本郷)、欧米文化学科(流山)を母体とする人文学部英米言語学科、英米地域研究学科を設置しました。現代の東洋学園大学の歩みはここから始まります。

Ⅸ.

校友

母校を失った東洋女子歯科医専同窓会は自力で歯科大学再興に動き、設置認可目前まで漕ぎつける力を示しました。その後は東洋紫苑会と名乗って一般的な同窓会活動を行い1985年に記念誌を刊行、高齢化のため1998年に解散しました。少数派の旧制東洋高校ならしの会も活発な活動を続け、1994年に記念誌を編纂して後世に足跡を刻みました。

バーチャルアーカイブス(360°VR)

屋外展示

年表

1917(大正6)年9月前身・明華女子歯科医学講習所開校
1918(大正7)年2月明華女子歯科医学校(各種学校)に改組
1921(大正10)年12月 専門学校令による明華女子歯科医学専門学校に改組(女子初) 
1926(大正15)年11月東洋女子歯科医学専門学校、文部大臣指定校(女子初)として創立 
1928(昭和3)年8月 ドイツ近代復興様式の校舎・寮竣工 
1941(昭和16)年5月 歯科医学の分野で初の女性主体による学会大会を挙行
1945(昭和20)年4月 第二次世界大戦の空襲により施設を焼失 
1946(昭和21)年5月 千葉県千葉郡津田沼町(現習志野市・船橋市)に移転
1947(昭和22)年4月第1回歯科医師国家試験、合格率全国2位の成績を挙げる
医学教育改革により旧制東洋女子歯科医専の募集を停止
10月旧制・東洋高等学校(理科乙類:旧制大学医学部進学課程/共学)開校
1948(昭和23)年11月 本郷校舎復旧 
1950(昭和25)年3月 東洋女子歯科医専第25回生、東洋高等学校第1回生卒業(最終) 
5月 新制・東洋女子短期大学(英語科)開学、英語科教員養成を開始 
1961(昭和36)年2月 本郷旧1~3号館第1期工事竣工、建築家・今井兼次による「フェニックス・モザイク」完成
1964(昭和39)年4月 コース制を設定、LL施設本格稼動開始 
1967(昭和42)年9月 千葉県流山市に流山キャンパス開設 
1973(昭和48)年4月 学科名称を英文科に変更、専攻科を設置 
1978(昭和53)年4月 学科名称を英語英文科に変更 
1982(昭和57)年4月 流山キャンパスに英米総合研究を骨子とする欧米文化学科を開設 
1992(平成4)年4月 東洋学園大学(人文学部英米地域研究学科・英米言語学科)開学 
1995(平成7)年4月 短大専攻科、学位授与機構認定となる 
2000(平成12)年4月 大学人文学部コミュニケーション学科設置
2002(平成14)年4月 大学人文学部人間科学科、現代経営学部現代経営学科設置
2004(平成16)年4月 大学人文学部、既存3学科を再編し国際コミュニケーション学科設置
2006(平成18)年3月 東洋女子短期大学第55回生卒業(最終) 
2007(平成19)年3月 本郷新1号館竣工 
2008(平成20)年4月 東洋学園大学大学院 現代経営研究科現代経営専攻設置
2013(平成25)年4月人文学部を再編しグローバル・コミュニケーション学部と人間科学部を設置