フェニックス・モザイクPhoenix Mosaic

本郷キャンパス1号館
フェニックス・モザイク「岩間がくれの菫花」
(今井兼次 作)

フェニックス・モザイク「岩間がくれの菫花」

大正15年に創設された旧制・東洋女子歯科医学専門学校は戦災と学制改革によって廃校となり、昭和25年、新制・東洋女子短期大学(英語科)が設立されました。昭和35年から短大設立10年を期して新校舎を建設した際、学園のシンボルとして制作されたものです。

校舎は5期に分けて建設されたため、壁画の制作は昭和35~39年にわたり、昭和36年の第1期工事竣工と共に完成したのが「岩間がくれの菫花」でした。以後、屋上などに「永遠の友情」、「芽生えから開花」、「思い出の四季」、「繁栄の樹」の合計5作品が制作され、これらの総称としてフェニックス・モザイクの名称があります。新1号館の建設に伴い、「岩間がくれの菫花」以外の4作品は惜しくも解体されましたが、断片は東洋学園史料室、文京区・文京ふるさと歴史館などに保存されています。

デザイン、制作指導にあたった今井兼次(明治28~昭和62年 早稲田大学名誉教授、日本芸術院会員)は、早稲田大学2号館(旧図書館、現會津八一記念博物館・大隈記念室)、同坪内博士記念演劇博物館、碌山美術館(安曇野)、遠山美術館(埼玉)などの設計で、また戦前からアントニオ・ガウディやルドルフ・シュタイナーの研究を手がけ、日本に紹介した業績で知られる建築美術家です。敬虔なクリスチャンでもありました。

A violet by a mossy stone
Half hidden from the eye!
- Fair as a star, when only one
Is shining in the sky.

苔むした岩角に、人目をさけて咲くすみれの花。
―ただひとつ夜空に光る星のような美しさ

(W. Wordsworth 『Lucy詩篇』より)

「岩間がくれの菫花」の主題は英国の詩人W. Wordsworthの抒情詩『Lucy詩篇』の一節を基調として、詩的に交錯した2本の線でこれを結び、太陽の永久性を伴奏として配してあります。戦災から復興途上の小さな女子短大だった本学を、すみれや夜空に光る星に仮託したものです。

当時、同窓会を中心とした校友の間では、シンボルは学園にかかわる全ての人の思いを結集したものにしたいという希望を持っていました。今井兼次は不用になったもの、小さな粗末な素材でも、それが数多く集まると大きな生命力になると考えていました。このため素材には主材料のタイルの他、在学生、卒業生、教職員の持ち寄った陶器の破片が多く用いられています。フェニックス・モザイクというタイトルには“永続の力強さ”や“永遠の歓び”を表現したテーマに、不死鳥(フェニックス)のイメージを重ねたものでした。社会にあって目立たなくとも清らかな存在感のある卒業生を育てたいという、学園の教育理想にも適ったものです。

フェニックス・モザイクのモチーフ、制作技法は昭和34年の千葉県・大多喜町役場庁舎(日本建築学会作品賞)で初めて試され、昭和36年東邦商事・大阪本町ビル、昭和37年日本26聖人殉教記念館(長崎、日本建築学会作品賞)、昭和41年の皇居・桃華楽堂(宮内庁楽部・香淳皇后還暦記念音楽堂、日本芸術院賞・第8回建築業協会賞)へと流れる一連の作品の中に位置づけることができます。本学も含め、これらは全て「フェニックス・モザイク作品群」とされています。

解説プレート
都市景観賞

モザイク・タイルの制作にはまた、優れた職人の業が必要でした。妥協を許さない今井兼次の指導に堪える技術と根気を持ったタイル職人は限られていました。各地のフェニックス・モザイクには、それぞれの地の名匠の仕事が記録として残っているケースもありますが、本学については長い間、不明でした。ところが、校史『東洋学園八十年の歩み』上梓をきっかけに、短大英語英文科39回卒業生の祖父・斎藤国太郎さん、繁さん父子(共に故人、(有)斎藤タイル)の仕事だったことが分かりました。通常の仕事とはまったく違う今井兼次の制作指導に日々戸惑い、大変な苦労をされて仕上げていったエピソードがご遺族に間に残されていました。

フェニックス・モザイク「岩間がくれの菫花」は、今後も東洋学園大学の精神的象徴として存在し続けます。従来、壱岐坂通りを往来する学外の方にこれらの由来を示すものがなかったため、創立80周年と新校舎竣工を機に解説プレートを設置しました(平成19年6月14日)。

平成20年3月には文京区・文の京都市景観賞「景観創造賞」を受賞しています。