2016年度後期展「―波濤を越えて 東洋女子歯科医学専門学校の外国人留学生」

1939年卒業アルバムより *コラージュは当時のもの

1937(昭和12)年の記録は残っていないが、翌年の満州国留学生連合学芸会で黄玉藍(1939年卒業)が「女性と歯牙に就きて」の演題で学術講演をしている。

創立90周年(2016年)/前身校開校100周年(2017年)記念シリーズ3
― 波濤を越えて
東洋女子歯科医学専門学校の外国人留学生

会場 東洋学園大学本郷キャンパス4号館6階 東洋学園史料室
アクセス
会期 2016年12月19日(月)~2017年5月12日(金)
時間 月~金(平日) 9時30分~16時30分
休館 土日祝、12月26日(月)~1月4日(水)、2月17日(金)、3月3日(金)、17日(金)、5月1日(月)、2日(火)
観覧・解説書(本文40ページ)無料

1943年卒業シャム(タイ)留学生 Somsri Premabutra
タイ王族出身と伝わる。

明治維新後、いち早く近代化を進めた日本は、中国をはじめとするアジア諸国・地域から多くの留学生を受け入れました。また、外地(海外領土)からも多くの学生が日本に来て学びました(内地留学)。

それぞれの国・地域でも女子教育が普及し、昭和期に至って高等教育レベルの女子留学が本格化します。戦前の女子の最高学府は旧制専門学校でした。本学はアジア全域でも稀な女子の歯科医学専門学校として、1921年から1947年までの26年間に140名(研究科1、特別生2含)の留学生を養成し、送り出しました。国・地域別の内訳は中華民国8、「満州国」20、朝鮮21、台湾 75、タイ 9、不明 7(概ね台湾と推定)、これは旧制時代の卒業生約2,800名中の5%にあたります。

留学生の受け入れは1930年代後半にピークを迎え、入学生の実に四人に一人、25%前後が留学生でした。卒業には至らなかったものの、英国海峡植民地(現マレーシア、シンガポール)、米領フィリピン、オランダ領東インド(現インドネシア)からの留学生もいたという記録、証言があります。

他校との比較上、顕著な特徴は台湾出身者の突出です。その一人、劉阿森(1939年卒業)は1961年に中華民国台湾省歯科医師公会理事長(歯科医師会長)に就任しました。後年、「私は東洋女子歯科のおかげで女性として、台湾の歯科医として、非常に誇りに思っています。歯科医師会長を務めた時、東洋の名をけがさないよう努力しました」と記しています。

留学生に関する実物資料は多くありませんが、詳説した解説書(本文40ページ)を無料頒布します。常設展と併せご覧下さい。

東洋女子歯科医学専門学校は国際性豊かな教育の場でした。空路未発達の時代、アジアの広範な国・地域から文字通り波濤を越えて本学に集い、学んだ留学生を記憶に留めていただければ幸いです。

満州国留学生(上下)と日本人学生(中列2人)

写真を所蔵する徳永勝子氏(中列右 広島県庄原市出身、1943年卒業)は、下段の留学生の姓を「趙」と記憶している。趙姓の満州国留学生は二つ上の学年に趙艶春、趙文愛、趙文恵の三人が在籍しており、1941年卒業アルバムで確認すると趙文愛である。戦後の彼女の消息は不明、趙文恵(左写真)は1985年の時点で哈爾浜(ハルビン)医科大学教授となっている。

上段は満州医科大学から転籍した研究科生のラピナ・ナタリア(当時の呼称で白系ロシア人)。ラピナは寮友に対し、日本へ見学に来た際、東洋女子歯科医専では口腔外科の岩橋先生(岩橋章教授・副院長)が案内して下さった。以来どうしても先生の下で勉強したくて日本に来た、と語っている。

1942年に研究科修了、引き続き医局で勤務の傍ら学業を続けたが、戦局悪化に伴い満州に帰国。以後の消息は不明、42年アルバムの名簿には海拉爾(ハイラル)の住所が記載されている。