2012年度
2013年3月25日
来室:旧制東洋女子歯科医学専門学校19回生・秋山幸様。(資料ご寄贈)。
東洋女子歯科医学専門学校19回生の秋山幸様と姪の小栗千絵子様が来室されました。背筋の伸びた立ち姿は座位で診療を行う現代と異なり、立位だった現役時代を彷彿させ、大変お元気なご様子でした。健在の卒業生を新たに知ることはとても嬉しいことです。当室のことはウェブでお知りになったとのことで、情報通信の発達のお陰です。
事前のお電話で秋山幸様のご母堂は旧明華のご卒業と伺っていましたが、お会いして明華1回生の秋山みよ先生と分かりました。女性は結婚すると姓が変わるので、明華初の数少ない卒業生から3名が歯科医術開業試験に合格して新聞報道された、あの秋山みよ先生のご家族とは想定外でした。
1920(大正9)年に合格したのは秋山みよ、瀬古のぶ、村松たいの3名で、平(旧姓・瀬古)のぶ先生の回想によると、合格率は約10%だったそうです。雑多な学歴を許容し、合格率の低い検定試験制度から、整備された医学校(旧制専門学校かつ文部大臣指定校)によって医師・歯科医師を養成するシステムへの変更が明治末から大正末にかけて進行し、これに伴い女性歯科医師も徐々に増えていきました。
23回生鈴木彧子先生のご母堂、松尾タクエ先生は前年、1919年に独学で歯科医術開業試験に合格しています。歯科医師を志して今から百年前の1913(大正2)年に大分県中津から単身上京し、歯科医院で住み込みの書生をしながら徒弟的に臨床を学び、男子校の別科や講義録で理論を独学し、免許取得に6年を要しました。1894(明治27)年に合格した日本初の公許女性歯科医師、高橋孝(こう)からようやく20人目位だったと聞きます。
それが東京(日本)女子、明華(東洋)女子、2校の女性歯科医育機関が軌道に乗り、それぞれ年100名前後の女性歯科医師を社会に送り出す先駆けになったのが秋山みよ先生らだったわけです。
秋山みよ先生の東京府知事あて「歯科医術開業届」の控(1924年)、患者第1号から始まる歯科診療簿(カルテ…東京歯科の血脇守之助先生編)という、貴重な資料をお預かりいたしました。また、本学に残っておらず、国立公文書館で複製した1940年(推定)『東洋女子歯科医学専門学校要覧』、戦時体制に伴い校友会から報国会に改組後初の刊行で、女子校では初の学術大会を記録した『東洋女子歯科医学専門学校報国会 学術大会特別号』(1941年)など、秋山幸先生ご在学当時の、これも貴重な資料をとても良いコンディションで託して下さいました。
改めて御礼申し上げます。後日あらためて、資料調査と聴き取りをさせていただく予定です。