2012年度
2012年8月31日
6月25日、7月12日の続きです。多くの方のご厚意により収蔵することになった83年前のアルバムをマイクロフィルム(モノクロ)、電子媒体(モノクロ・カラー)化しました。1929年の第4回卒業生はまだ数も少なく(専攻科78名)、個人ページのボリュームが少ないこと、寄贈に関わった日浦、小森ご両家から写真の複製依頼があることから、今回は全ページカラー撮影として複製本もカラーから起こしました。モノクロに比べ、圧倒的に再現性に優れています。これを3部作成して2部を両ご遺族にお送りいたします。
本書の特筆すべき点は、4回生卒業2ヶ月前の8月22日に就任し、翌年2月6日に逝去して半年しか在任期間のなかった東洋女子歯科医専第2代校長、青山幸宜の大判ポートレートが掲載されていること、また1929年制定のはずの「東洋女子歯科医学専門学校校歌」でなく、「吾等の歌」という未知の歌詞が収録されている点にあります。校歌作曲者の和久本文枝(1904~1982 3回生、後に教授、医学博士)は、以下のように記しています。
「私が卒業の翌年、文部省歯科医師試験付属病院(註:現在の東京医科歯科大学)に研究生として派遣されていた時のことである。宇田(尚)先生から呼び出しがあって、帰路学校に立ち寄った所、この歌詞を渡され作曲家に作曲を頼んで欲しいとの事であった。しかし、何人かの作曲家を訪問したが、この歌詞を見せるとあっさり断られてしまった」
宇田尚理事長の作詞はいかにも素人臭かったようで、報酬の点でも折り合いがつかず、プロの作曲家は誰もとりあってくれなかったようです。そこで音楽の才もあった和久本文枝が自ら作曲を手掛けることになります(ご遺族より、高等女学校時代は歯科より音楽学校を志望されていたと伺っています)。
「吾等の歌」はその不採用稿と思われ、校歌制定はこれまで年度替わりの1929年4月としていましたが、時期を年末に繰り下げる必要がありそうです。
青山幸宜は美濃国(郡上踊りで知られる)郡上藩最後の第7代藩主で貴族院議員です。維新後は華族実業家として十五銀行頭取、日本鉄道(株) 取締役、玉川電気鉄道(株)取締役、岩倉鉄道学校理事などを歴任しています。宇田尚を実業界に誘い、亡くなるまで常に宇田尚の事業上のパートナーでした。青山校長没後、宇田尚が校長を兼務して1945年まで続くことになります。
保存箱は中性紙のB4サイズ、既製品より高さを減じた本学資料に適したサイズで特注しました。古い書籍、アルバムはA版よりB版の方が収まりが良いように思います。