2013年度
2013年11月11日
受贈:東洋女子短期大学英語科18回生(1969年3月卒)の方より1960年代後半資料。
1969年3月卒の短大英語科18回生の方から資料29点をご寄贈いただきました(ご希望によりお名前を伏せます)。卒業アルバム、昭和43年度卒業生就職状況一覧表、第5回フェニックス祭パンフレット、各種教科書、ノート、英文タイプ教材など多数の資料のうち、特に目を引くのは教育実習資料です。Teaching Plan、実習校の資料、教え子のメッセージなどが一人の実習生単位でまとまっています。
短期大学の制度は本学のように戦災のダメージが大きかったり、小規模で新制大学への改組が難しい旧制専門学校を中心として1950年に発足しました。初期は民間企業への進路が確立しておらず、英語科単科だった本学の場合、卒業生はほとんどが中学校教員(英語科)になりました。1952年の短大1回生卒業以降、ほぼ全員が教員免許を取得する時代が7~8年続き、特に3回生(1952年入学、1954年卒業)は58名全員が免許を得ています。
この状況の変わる境目が1959~60年で、以後次第に民間企業への進路が増えていきました。これは高度経済成長と、それから1テンポ遅れて顕在化した企業の採用意欲の向上にぴたりと一致しています。語学のできる女性事務職の需要は以後、バブル崩壊と平成不況が始まる1990年代前半まで高い水準を維持しました。
このため1950年代後半から課程を教職課程と実務課程に分け、1964年からそれぞれを1類、2類として正規のコースとし、その後も幾度かの変遷を経て英語英文コース、英文教養コース、実用英語コースの3コース制が長く続きました。寄贈者の方が入学した1967年度までは入学後のコース分けでしたが、翌1968年度からコース別の出願となっています。
旺盛な経済活動に伴う求人需要の拡大に伴って教員志望者は漸減していきましたが、18回生でも卒業558名中、教員免許取得者174名と、まだ大きな勢力でした。
一方、一般教育課程の教科書を見ると、戦前から続く哲学を中心とした教養主義が健在であったことが窺われ、団塊世代の学生と戦前の教育を受けた教員とのギャップも感じられます。当時は大学紛争(学園紛争)のピークでしたが、急速に大衆化した大学の学生と、大学がエリート教育だった時代に教育を受けた教員の軋轢という、紛争の背景が浮かび上がってきます。
学園祭フェニックス祭パンフレットの各扉にはジイド、ハイネ、モーアの一節がそれぞれ記される一方、1ページ目のスローガンには次の文字が躍っています。
「クラス・クラブの連帯性を強化し自治活動の活発化を!
社会問題への無関心をあらため 女性としての役割を認識しよう!」
この頃、赤塚不二夫は教条的なアジ演説をするヘルメット姿の大学生をしばしば(滑稽かつ批判的に)描き、1969年にはまだ、上野や両国といった都心のターミナルにも蒸気機関車が姿を現していました。新旧混在、急速な変化と軋みが発する時代の空気がよく伝わります。