2014年度
2014年11月5日
旧制東洋女子歯科医学専門学校、故・江森茂十二教授ご遺族の同校20回生・平田葉子先生より連絡をいただく。
江森茂十二先生は『日本歯科医籍録』(第2版.大正15年10月.医事時論社)に掲載された明華女子歯科医学専門学校広告に、「技工及継続架工学実習 江森茂十二」と掲載されている古くからの教員で、歴代の学生からエモちゃん、エモヤンと親しまれ、1950年の東洋女子歯科医学専門学校閉校まで補綴の分野で活動されました。文筆の才があり、東洋女歯の創立(明華から校名改称・指定認可)直後に創刊された校友会誌『東洋女歯校友』の発行責任者を最初から最後まで務められました。
『東洋女歯校友』については以下をご参照下さい。
論文から学事記録、文芸まで、充実した内容で年3ないし2回のペースで発行された『東洋女歯校友』全39冊(内4冊は抄録の保有)が残されたことで、戦前の本学の動静をかなり具体的に知ることができます。発行が軌道に乗るまではご自身が執筆されることもあり、初期の号に卒業旅行の紀行文を幾つか残され、本年度前期企画展「乙女の遠足 ―遊覧から教育へ― 昭和期を通して見る学校行事の旅行」にも引用しています。
記録を残す、という大任を果たした江森先生の消息をずっと探していました。資料の集積により、東洋紫苑会(同窓会)1972年度総会までのご健在は写真、会報で確認できましたが、名簿の電話番号には繋がらず、その後は不明。主要教員としては就任前のご経歴、廃校後のお仕事についても不明でした。20回生にご長女がいらっしゃったとは盲点で(名簿には「江森」の旧姓がありませんでした)、お電話をいただき驚きました。それから二度に亘りお話を伺わせていただきました。
まず、上記2008年10月8日の写真キャプション中、推測による誤った記述があり、正しい情報をご教示下さいました。江森先生が新潟医科大学に勤務されたことはありません。お詫びして訂正します(現在、同記事は修正済みです)。
江森先生は1888(明治21)年、埼玉県北埼玉郡大塚村(現、熊谷市大塚)で十三代続く旧家に生まれ、尋常小学校卒業後は検定で中等教育の卒業資格を得て、東京慈恵会医院の外来で勉強されたと伺いました。その後、日本歯科医学専門学校(現、日本歯科大学)に入学し、卒業後に縁あって明華女子歯科医専に着任されました。各種学校だった同校が専門学校昇格を申請した1921(大正10)年の文書にはお名前が見えないので、そこから1926年まで5年の間に採用されたと考えられます。
1950年の東洋女子歯科医専閉鎖後は熊谷に戻り、歯科医業はそこで開業したご子息に譲られ、俳句同人誌『俳座』を主催する一方、地方紙の社説、コラムの執筆に健筆を揮いました。1973年に他界された後、その文化的功労により熊谷市から表彰された由、伺いました。
江森の姓は医療法人社団江森会として今日に残り、戸塚など神奈川県で盛業中です。
また、平田先生から15回生で卒業後、医局に勤務された佐野(旧姓:鈴木)レイ子先生のご健在を伺いました。佐野先生にも月末から12月初旬にかけ、電話による聴き取りを行いました。
『東洋女歯校友』は依然、『校友』時代の第3・4号、『東洋女歯校友』に改称して初の5号(いずれも1928年)、29号(1939年6月)が未収集です。これらは『東洋女子歯科医学専門学校の六十八年』(1985年.東洋紫苑会)に一部記事が掲載されていますが、原本を引き続き探しています。