お知らせ
湯島聖堂「神農祭」記念講演「神農廟造営と東洋学園創立者・宇田尚」開催報告
2018/12/14
11/23(金)に湯島聖堂で行われた「平成30年度神農祭」(主催:公益財団法人斯文会、協賛:神農奉賛会11団体)の記念講演会にて、東洋学園史料室の永藤欣久史料室次長が「神農廟造営と東洋学園創立者・宇田尚」というテーマで講演を行いました。
神農祭は史跡湯島聖堂の伝統行事です。
祭事は成澤廣修文京区長、名取顕一区議会議長ら列席の下、神田神社神職によって執り行われました。
宇田尚の孫である愛知絢子氏、講演からは同じく江澤玲子氏も参加し、斯文会、奉賛会関係の方々と交流しました。
神農は古代中国で医薬の祖、農業、交易の神とされます。
江戸幕府三代将軍徳川家光の発願によって作られ、湯島聖堂や医学館で祀られた神農像は明治維新後、新政府に接収されて帝室御物となった後、民間に下賜されました。
そのため以後、恩賜神農像と言います。
第二次世界大戦の戦火が激しくなると民間による維持が困難となり、湯島聖堂へ戻すことになりました。
その際、聖堂を運営する斯文会の理事が本学(旧制東洋女子歯科医学専門学校)の理事長・校長だった東洋学園創立者・宇田尚(1881~1968)でした。
今日の学校法人東洋学園理事長・愛知太郎の曽祖父です。
戦争によって民生用物資が極度に欠乏した1942年から43年にかけ、宇田尚は「私費を投じて神農廟を建設して国家に献納しました」(1968年当時の斯文会理事長・徳川宗敬の言葉)。
その後、本学は空襲で全施設を焼失し、約半年間に亘り湯島聖堂で教育を継続しました。
これも斯文会と宇田尚の緊密な関係から可能だったことです。
講演会場の斯文会館講堂が教室となり、講堂は今も往時の姿を留めています。
宇田尚の父、宇田廉平(1840~1906)は儒者・海保漁村、芳野金陵に学び、武蔵国六浦藩大参事、明治新政府集議院徴士として国事にあたりましたが、政府中央と対立して藩の旧領である栃木県上都賀郡永野村(現鹿沼市上永野)に逃れました。
栃木の家は漢籍から採った槃澗書屋(はんかんしょおく)と名付けられました。現在の東洋学園栃木寮です。
その後、明治20年代に教育者として復権し、第一高等中学校(後に第一高等学校、現東京大学の一部)倫理学教授、陸軍幼年学校教授として活動しました。
栃木の家は宇田尚によって1930年に槃澗学寮と改められ、その維持が図られました。
以後、学寮は今日まで大きな変化がなく、それ自体が史跡であり収蔵庫です。
以上のように本講演はかつての湯島聖堂と東洋学園との関りを梃に、宇田廉平・尚父子の事績を紹介しました。
今日の史跡湯島聖堂と東洋学園史料室は、ともに文京区・文京ミュージアムネットワークを構成する社会教育施設として地域に根差した活動を続けています。