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今年で100周年!東洋学園の歴史、今、そして未来【中編】

2026.10.26

創立100周年,キャンパスライフ

東洋学園は2026年11月4日に100周年を迎えます。それを記念して、100周年にまつわるさまざまな情報をお届け。【中編】では、長い歴史を持つ本学ならではの“七不思議”をご紹介。女性のための歯科医学専門学校、女子短大、そして大学へと進化する中で生じた学園の謎を解き明かしていきます!

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学園が創立した頃の謎

史料室の様子

100年の歴史を誇る東洋学園。1号館9階にある史料室には、建学当初からの資料がたくさん収蔵・展示されており、在学生は自由に見学することができます。今回は、その史料室に残る古い写真をもとに、学園の七不思議に迫ります。まずは学園が誕生した大正時代~昭和初期にかけて撮影された写真に関する謎解きから!

【七不思議その1】白衣姿の女学生の謎

1927年に撮影された写真

上の写真は、現在の1号館2階にあたる場所で1927年に撮影されたもの。写っている女学生は白衣を着用し、なにやら実習を行っている様子……。実はこれ、歯医者さんを目指す女学生たちが臨床実習を行っているシーンなのです。

本学のルーツは、東洋女子歯科医学専門学校(以下、東洋女子歯科医専)という女性歯科医師の養成学校。創立は大正時代の1926年で、当時は女性の社会参加が進み始めた頃でした。なかでも歯科医師は人気の職業で、東洋女子歯科医専には1学年につき100名前後の学生が在籍し、勉学に励んでいました。

1938年に撮影された細菌実習の様子。当時は高価だったと思われる顕微鏡を使用

ちなみに、当時の“専門学校”は戦後の現行制度下で大学・短期大学となっています。東洋女子歯科医専の在学期間は4年半で、予科半年+本科3年+専攻科1年という内容でした。学校には付属医院が設置され、国家資格である歯科医師免許の取得に向けて、学年が進むにつれ実践的に技術を学ぶ臨床実習を多く設定するカリキュラムとなっていました。

史料室に展示されている当時のデンタルボックス(左)と歯の切削機器(右)

【七不思議その2】校舎の上に人が住んでいた!?

1929年頃に撮影された写真

上の写真は1929年頃に撮影されたもの。私服(和服)の学生が自習をしている様子ですが、実はここ、校舎の上に作られた寮の一室なのです。

今でこそ日本各地に大学がありますが、その昔は地方にまで学びの場が行き渡っておらず、進学を志す学生は東京など大都市への上京が必須でした。特に、歯科医師を目指す女性のための旧制専門学校は、東京にたった2校だけ。そのひとつが東洋女子歯科医専であり、日本全国、そして海外からも多くの学生が集まってきました。そのため、需要に応じて寮(寄宿舎)が整備されていったのです。

1920年代の寮 3階の正面が上写真の自習室

当時の校舎は現在の本郷キャンパスと同じ場所にあり、敷地内には4つの寮が併設されていました。寮のひとつは校舎の3階にあり、教室の上で学生たちが生活。共用のお風呂や食堂も完備していました。この時代の学校は、勉学に励む場であると同時に、集団生活を送りながら規律ある生活を身につける場でもあったのです。

時は流れ、キャンパス内の寮は消滅しましたが、東洋女子短期大学時代に「安藤坂ドミトリー(※現・東洋学園大学専用学生マンション)」が誕生。当初は相部屋スタイルの寮でしたが、数度のリフォームを経て、近年のライフスタイルに合わせた全室個室(バス・トイレ・ミニキッチン完備)の学生マンションとなりました。大学まで徒歩16分の便利な立地で、現在も多くの学生や海外からのインターンの生活拠点となっています。

現在の学生マンション

【七不思議その3】モノクロ写真に写る外国人の謎

東洋女子歯科医専時代の写真

上の写真は東洋女子歯科医専の時代に撮影されたものです。左右に写っているのは日本人の学生ですが、上下は外国人……?なぜ学内に外国人の学生がいたかというと、当時、留学生の受け入れが盛んに行われていたからなのです。

東洋女子歯科医専の確かな教育の評判は、国内はもちろん近隣諸国にまで響き渡り、多くの留学生が海を渡って学びに来ていました。最多は日本領だった台湾からの留学生。当時の台湾では、社会的地位の向上を求めて医師・歯科医師を目指す女性が現れ始めていたものの、現地には女子の医育機関がなかったのです。

1934年の校友会誌。台湾からの留学生が卒業後に活躍する様子を紹介

1935年頃になると、中国からの留学生が急増しますが、日中戦争の勃発により学業半ばで総引き揚げに。入れ替わるようにしてタイからの留学生が登場し、さらに国際色豊かになりました。アジア太平洋戦争の開戦で留学生は途絶えてしまいましたが、1950年までの卒業生約2,800人のうち、5%にあたる140名が留学生だったという記録が残っています。

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校舎&グラウンドにまつわる謎

ここからは、現在の校舎とグラウンドに関する謎を紐解いていきましょう。これを読めば、「校舎が1号館と4・5号館だけなのはなぜ?」「どうしてグラウンドが千葉にあるの?」といった疑問を解消できますよ。

1959年に撮影された校舎

【七不思議その4】消えた2・3号館の謎

上の写真は、東洋女子短期大学時代の1959年に撮影されたもの。ファッショナブルな女子短大生の横に写っているのは、戦後に再建された第4代校舎です。真っ白でモダンな外観から“白亜の殿堂”と呼ばれていました。

手前に1号館、右奥に2号館、左奥に3号館があった時代

校舎が建っているのは、現在の1号館と同じ場所。現在、本学の校舎は1号館と4・5号館の3つですが、この時代は1つだけでした。校舎が増築されたのは、高度経済成長期を迎えて学生数が一気に増えた頃。1号館を建て替え、さらに2号館と3号館が新設されたのです。その後、4号館と5号館も新設され、校舎は全部で5つに。前後して学園の形態も「女子短期大学」から「大学」へと変わりました。

現在の1号館は12階建ての近代的なビル

21世紀に入ると、時代の変化に合わせて校舎を大幅に改築する計画が浮上。1~3号館をいったんすべて解体し、近代的な1つのビルに集約することになりました。2・3号館は新1号館に吸収され、幻の存在に。こうして1号館と4・5号館だけが残ったというわけです。

【七不思議その5】グラウンドが千葉にある謎

1960年頃に後楽園ローラースケート場で撮影

上の写真は、東洋女子短期大学時代の1960年頃に撮影された体育の授業の様子です。
学生たちが履いているのはローラースケート。当時は法律上、体育の授業が必修でしたが、当時は学校にグラウンドはおろか体育館もありませんでした。
そこで、近隣大学のグラウンドを借りたり、ローラースケートやスキー、登山などを授業に取り入れたりしてどうにか凌いでいたのです。

現在の東洋学園大学グラウンド

現在、本学は学内に体育館を備えるほか、千葉県松戸市に東洋学園大学グラウンドを完備しています。
でも、キャンパスは東京・本郷にあるのに、なぜグラウンドだけ千葉という離れた場所に存在しているのでしょうか。

実は本学は、古くから千葉との縁があります。
もともと東洋女子歯科医専として東京に校舎を構えていた本学ですが、その校舎が空襲で焼けてしまい、数年間だけ千葉・津田沼へ移転することになりました。この時、仮校舎として利用したのは旧陸軍の兵舎。敷地内には広場(練兵場)もあり、併設の旧制東洋高等学校との合同運動会なども行われました。

戦後の数年間だけ存在した旧制高校。写っているのは野球部員

やがて本郷の校舎が再建されると、東洋女子歯科医専は千葉から引き揚げますが、再び転機が。前述のとおり学校の形態が女子短大に変わり、体育の授業が必修になったため、グラウンドを完備した新キャンパスを開設することになったのです。広い敷地を求めてたどり着いたのは、千葉の流山という場所でした。

左に見える赤レンガの建物群が旧流山キャンパス

流山キャンパスは1967年から2017年頃までの約50年間使用され、2018年で閉鎖に。
校舎は市立中学校として活用されることになり、川の対岸(松戸市)にあったグラウンドだけが残りました。その後、野球場の土を入れ替えたり、テニスコートを一新したりなど、大規模な整備を実施。現在は主に硬式野球部とテニス部の活動拠点として使われています。

 

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学園祭の名称&誕生日の謎

本学の学園祭は、「フェニックス祭~郷郷祭り~」というダブルネーム。なぜ二重名称なのでしょうか。
また、大学の創立記念日は5月1日のはずなのに、100周年の記念日は11月4日。なぜズレが生じているのでしょうか。

これらの謎にも、東洋学園の歴史が深く関係しています。

【七不思議その6】学園祭の名前が2つある謎

1971年の学園祭の様子

上の写真は、東洋女子短期大学時代の1971年に撮影された学園祭の様子です。当時の学園祭の名称はシンプルに「フェニックス祭」のみ。名前の由来は1号館の外壁を飾る壁画「フェニックス・モザイク」です。

1号館のフェニックス・モザイクが名称の由来

東洋女子短期大学は1950年~2006年まで存在していましたが、並行して1992年には東洋学園大学が千葉県流山市鰭ヶ崎(ひれがさき)の流山キャンパスで開学します。そして大学の学園祭が行われることになり、地名にちなんで「鰭鰭祭(ひれひれまつり)」と名付けられました。

この「鰭鰭祭」は2015年まで開催されていましたが、キャンパスが東京・本郷に集約されることになり、学園祭の舞台も本郷へと移ることになりました。

流山キャンパスでの鰭鰭祭の様子

学園祭を本郷で開催するにあたり、ネーミングは「鰭鰭」の語感を引き継ぐ「郷郷(ごうごう)」が採用されました。しかし、女子短大時代を知る人々からは「フェニックス祭」の名称復活を推す声も多く、両方の伝統を感じさせるダブルネーム「フェニックス祭~郷郷祭り~」が誕生することになったのです。

「フェニックス祭」と「郷郷祭り」のいずれにも、本学の辿ってきた歴史や先輩たちの母校愛が秘められています。

近年の学園祭「フェニックス祭~郷郷祭り~」の様子

【七不思議その7】“誕生日”が2つある謎

1927年の卒業アルバム

上の写真は1927年の卒業アルバムから抜粋したもの。
東洋女子歯科医専が誕生したのは1926年ですが、それ以前に明華女子歯科医学講習所(→歯科医学校→歯科医学専門学校)という前身校があり、その時代から在学していた学生たちの卒業アルバムです。

東洋学園が誕生して初めての卒業式

実は、東洋女子歯科医専の創立に大きく貢献したのは、前身校・明華女子歯科医専の学生たちでした。
当時、歯科医師の免許を得るには「文部大臣指定校」を卒業するのが有利とされていましたが、前身校はその指定を受けていませんでした。そこで学生たちが奮起し、保護者と文部省を巻き込んだ学生運動を展開。「文部大臣指定・東洋女子歯科医専」の創立を実現させ、認可がおりた翌日に卒業式が行われました。これにより、国家試験免除で歯科医師免許を得ることができたのです。周囲の人々と協力しながら課題と向き合い、未来を切り拓いた当時の学生たちは、まさにPBLを体現していたといえるでしょう。

女子短大時代の卒業式

本学では、東洋女子歯科医専の創立日である1926年11月4日を「東洋学園の誕生日」ととらえ、2026年11月4日を100周年の記念日に設定しています。一方、大学の創立記念日として5月1日がありますが、こちらは東洋女子短期大学の開学日にちなんだもの。東洋学園が新たなステップを踏み出した日であり、これが現在も大学の創立記念日として受け継がれているのです。

東洋学園の長い歴史の中には、ほかにも知られざるドラマがいっぱい。ぜひ史料室を訪れて探求してみてください!